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さりげない日常、立ち上る戦慄~映画「白い牛のバラッド」 [映画時評]

さりげない日常、立ち上る戦慄
~映画「白い牛のバラッド」


 イラン・フランス合作。イラン映画といえば「別離」や「セールスマン」のアスガー・ファルハディ監督を思い浮かべる。今回は、ミナを演じたマリヤム・モガッダムとベタシュ・サナイハの共同監督だが、ファルハディ監督に通じるイラン映画のよさが随所に見られた。さりげない日常を生きる人間の心理を濃やかに描き、立ち上る戦慄。イラン映画の魅力である。

 ババクは殺人罪に問われ、死刑が執行された。処刑の日、妻のミナが最後の面会に訪れるシーンから始まる。
 年が過ぎた。ミナは生活費を稼ぐため牛乳工場で働いていた。娘のビタは耳が不自由だ。義父がビタの親権を求めて裁判を起こすといっている。苦しい生活の中、裁判所から呼び出しがあり、恐るべき事件の真相が明かされた。新たな証言によってババクは冤罪だったというのだ。賠償金2億7000万トマンが支払われるという。ミナは、判決を出したアミニ判事の謝罪が欲しいと訴えた。新聞にも謝罪要求の広告を出したが、聞き入れられることはなかった。
 ある日、ミナのもとへババクの古い友人と名乗る男レザ(アリレザ・サニファル)が現れた。借りた金を返したいという。1000万トマンほどだった。このときレザを家に入れたことが大家に知れ、ミナは立ち退きを迫られた(随分古臭いが、それがイランの現実かも)。そのことを知ったレザは、住宅を安価に借りられるよう手配してくれた。そんなレザに、ミナは親切以上のものを感じた。
 そんな折り、兵役に出ていたレザの息子が急死した。麻薬の過剰摂取だった。心臓に持病を持ち、そのうえ精神的に不安定になったレザを一人にしておけないと、ミナは自分の家に連れ帰った。そして二人は一線を越えた(性的描写に厳しいイランで、このシーンはとても象徴的に描かれる。一見の価値あり)。
 しかし、親権裁判がミナの勝利に終わった直後の義弟からの一本の電話が、彼女を絶望の淵に陥れた。レザは、アミニ判事だったのだ。誤審を悔やみ、職を辞していた。ミナに対する謝罪も応じるつもりだったが、裁判所に止められていた。そこで、できる限りのことをしようと思ったのだ。
 真相を知ったミナは、一杯のミルクを差し出した。気迫のこもった視線にたじろいだレザは、それを飲んだ…。

 床に倒れ苦しむレザ。その後に、何事もなく飲み干すレザ。そして夜のホームでビタと共に列車を待つミナ。解釈は様々だ。亡夫の恨みをはらしたかもしれない。すべてを乗り越えて3人で生きることを決めたのかもしれない。レザと別れビタと生きていくことを誓ったのかもしれない。
 考えさせる映画である。究極的な不可逆制度である死刑そのものへの疑問。冤罪によって命を奪われたとき、肉親は怒りや恨みをどこにぶつけるのか。映画では、白い牛が広場につながれ、両側の塀に人が並んでいるカットが時折り挟まれる。刑務所に幽閉され、無実の罪で刑に処せられたババクを象徴するようにも見える。
 2億7000万トマンは現在の為替レートで800万円余り、1000万トマンは30万円ほど。同じケースが日本であった場合、国家賠償は800万円程度では済まないと思うが、イランの経済事情も考えて、これが高いか安いかは簡単には判断できない。
 英題も「Ballad of a White Cow」。コーランの一章から来ているらしい。2020年製作。


白い牛のバラッド.jpg


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