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操縦するのは運命か車か~映画「ドライブ・マイ・カー」 [映画時評]

操縦するのは運命か車か~
映画「ドライブ・マイ・カー」


 一つ間違えば妻に先立たれた男のさえない未練話になるところだが、一歩手前でとどまっている。理由は二つ考えられる。一つは劇中劇としてチェホフの舞台を大胆に取り入れたこと。男の心情表現に奥行きを持たせている。もう一つは東京、広島、北海道、韓国とロケーションを変える中で、あくまで無機質の風景にこだわっていること。風景はひたすら匿名性を保ち、出しゃばりすぎていない。そのことが、それぞれの心象を重ね合わせることを容易にしている。

 家福悠介(西島秀俊)は舞台俳優で演出家でもあった。妻・音(霧島れいか)と満たされた生活を送っていた。音には不思議な才能があり、セックスの後、もしくは最中に不思議な物語を紡ぎだすのだった。それを悠介はシナリオにした。ある日、帰宅した悠介は音と若い男の情事を目撃する。そのことを語り合わないまま音はクモ膜下出血で突然死した。彼女が紡ぎだす物語も、途切れた。
 2年が過ぎた。数々の疑問や秘密を残し逝ってしまった音に、悠介は取り残された気分を抱いていた。
 悠介は、ある地方都市(広島)の演劇祭の指導を頼まれた。現地へは赤いサーブで赴いた。音との思い出が詰まっていた。彼女が入れたテープを車内で聞き、セリフの練習をするのが日常だった。ところが演劇祭の主催者は、悠介の運転に難色を示した。以前に同じような状況で事故が起きたからだ。悠介も引き下がらなかった。この車を運転することは、音との思い出を生きることだからだ。だが結局は悠介が折れ、運転手がついた。渡利みさき(三浦透子)だった。運転はうまいが寡黙で、何か秘密を抱えた印象の女性だった。
 それでも言葉を交わすうち、共振するものがあることに気づいた。
 「ワーニャ伯父さん」(チェホフ)の舞台が間近に迫ったころ、俳優の一人、高槻耕史(岡田将生)が暴力事件を起こして警察に拘束された。選択肢は二つだった。舞台を中止するか、代役として悠介が立つか。その俳優はかつて音との情事を目撃した男だった。悩んだ悠介は、みさきに、どこか考える場所に連れて行ってほしい、と依頼する。彼女が向かったのは北海道の生家があった場所だった。山津波で、今は残骸だけがあった。
 この場所で、みさきはかつての喪失体験を語る。それに、悠介が自らの喪失体験を重ねた。

 赤いサーブは、かつて音と生きた証であり、だからこそ悠介は運転にこだわった。しかし、その車を運転している限り妻を失った悲しみから逃れることはできない。
 「ドライブ・マイ・カー」は、二つの意味を重ね合わせている。一つは、文字通り「サーブを運転すること」。もう一つは、そこから離れて「運命」という「マイ・カー」を操縦すること―。
 ラストシーンは、二つの意味の転換を鮮やかに表現している。
 監督・脚本濱口竜介、原作村上春樹。三浦透子の存在感、霧島れいかの妖艶に脱帽。


ドライブマイカー.jpg


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コメント 2

paronboy

本日ドライブ・マイ・カー見てきました。
ラストシーンに、その後の色々なケースを想像させられました。
これが本当の結末というものはないのでしょうが。

by paronboy (2021-09-01 14:09) 

asa

>paronboyさん
ラスト、この後どうなるんだろうな、という余韻がまたいいですね。
by asa (2021-09-04 11:04) 

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