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「平成」と苦闘した歴史家~濫読日記 [濫読日記]

「平成」と苦闘した歴史家~濫読日記


「歴史なき時代に 私たちが失ったもの 取り戻すもの」(与那覇潤著)

 与那覇潤という歴史家の名を知ったのは「帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史」(2011年)を読んだ時だった。小津という人間を、映画評論家ではなく歴史家が分析した、というので手にした。実証的で精緻な論考が記憶に残った。同時に、映画という虚構の世界に学術的手法で挑むことに斬新さを覚えた。しかし、病を得たという情報を耳にして以降、著作に触れる機会がなかった。
 10年ぶりに手にした著書は「歴史なき時代」という刺激的なワードがかぶせられていた。その言葉は、決して薄くはない(449㌻ある)一冊の本を貫く問題意識につながっていた。いうまでもないが、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」に通じるこの言葉は、ポスト冷戦の世界を言い表している。ヘーゲル的な意味での対立と止揚のなくなった時代、果たして歴史は存在意義を持つのか。
 同時にこの言葉は、与那覇自身の歴史学をめぐる個人的体験と疑問に通じている。今日的な状況と対話しない歴史学とは何か。歴史観が問われない歴史学などあるのか。古文書の読解が歴史学なのか。これが、与那覇の抱く根源的な問いのようだ。
 この二つの問題意識が交差するところに、いま「コロナ」がある。未知のウイルスに対して歴史学は何ができるか。目の前にある現実に対して何もしない、何も発言しない歴史学、研究室に閉じこもって史料の解読にのみ精を出す歴史学に意味はあるのか―。

 大きく分けて三つの構成からなる。まず、インタビューと長めの評論。著者の基本的な思考が分かる。続いて時評。最後に4人との対話。
 インタビューではコロナ禍について、なぜ歴史学者だけが無力なのかと問う。理系学者がエビデンスに乏しい論を言っても従順に従う。そこには時間軸を置いた思考がないという。理系へのコンプレックスが抜きがたくあり自粛が横行する。かつて「8割おじさん」と呼ばれた西浦博教授らが標的になる。確かに「何もしなければ42万人が死ぬ」との指摘はどこに行ったのか。
 ドイツのメルケル首相の演説が注目を浴びたが、評価の仕方についても一言指摘する。「同じ歴史を共有してきた」という語り口が共感され、ドイツ国民の支持につながった。それが重要だと言う。
 英雄なんかいない、いるのは不完全な普通の人間ばかりだ。こうした歴史を「三国志」や陳舜臣の「小説十八史略」に見た。本多勝一にも学ぶ点が多かったという。たとえば「殺す側の論理」や「殺される側の論理」。冷戦下、立場が違えば歴史も違うという実例である。与那覇歴史学の原点がありそうだ。
 時評では、山本七平の「実体語と空体語」の概念を引く。今日の状況を解剖する手掛かりになりそうだ。
 浜崎洋介、大澤聡、先崎彰容、開沼博との対話を収めた最終章では福田恒存、丸山眞男の類似性への言及が面白い。「身体から言語との一致に近づこうとしたのが福田で、逆に思想史家として言語から身体をめざしたのが丸山というだけの違いかもしれない」。鋭い指摘だ。

 時代を元号で区切ることに意味があるのかはわからないが、平成はポスト冷戦の30年だった。そして、歴史的には恐ろしいほどに何もない時代だった。そうした「時代」をくぐりながら格闘した歴史家の姿を見る。
 朝日新書、1100円(税別)。


歴史なき時代に 私たちが失ったもの 取り戻すもの (朝日新書)

歴史なき時代に 私たちが失ったもの 取り戻すもの (朝日新書)

  • 作者: 與那覇 潤
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2021/06/18
  • メディア: Kindle版








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