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軽やかで強靭な女性がいた~濫読日記 [濫読日記]

軽やかで強靭な女性がいた~濫読日記

「評伝 石牟礼道子 渚に立つひと」(米本浩二著)

 タイトルに「渚に立つひと」とある。「渚」は何の比喩であろう。道子が育った家庭は、水俣で石工集団を率いた。一時は隆盛したが、職人的なこだわりを持つ父親によって家業は傾き、一家は水俣川の川べりに移り住んだ。道子8歳。掘っ立て小屋は文字通り渚にあった。第一義的にはこのときの体験=記憶から来ているとしても、もちろん含意はそこにとどまらない。
 「苦海浄土」を著した道子が見ていたもの、それが「渚」であった。チッソ(旧名・日本窒素肥料)水俣工場の有機水銀垂れ流しによって現出した地獄絵図は前近代と近代のぶつかり合いであり、近代文明による自然と人間の圧殺でもあった。目撃者であった道子は、生と死を同時に見すえる(あるいは行き交う)文体によって、この「苦海浄土」を書き切ることができた。すべてが「渚」で起きた事柄だった。魚や貝、カニ、海藻に恵まれたかつての「渚」は姿を変えたのである。道子は次のように語っている。

――人類というより生類という言葉で表現したいのです。海から上がってきた生類が最初の姿をまだ保っている海。それが渚です。海の若者たちが上がるとき、〝ここが陸地だ〟と思うでしょう。陸地から海へ行くときは〝ここからが海だ〟と思ったでしょう。海と陸を行き来する。文明と非文明、生と死までも行き来する。人間が最初に境界というものを意識した、その原点が渚です。

 蘊蓄のある、さまざまに読み替えが可能な言葉である。
 道子の文学的同伴者渡辺京二からなんとはなし評伝を書かないかと誘われた米本は「決死の覚悟」で道子に「書かせていただけないか」と頼み込んだ。それほど、この時の道子は巨人だった。世を旅立つ4年前、2014年のことである。
 こうして米本の筆による道子の軌跡が立ち上がっていく。そこには、いつも「尋常でないもの」が付きまとう。道子の祖母は狂気にとらわれていたし、街の若い女郎が中学生に刺殺される事件も起きた。一家の没落に始まる彼女の軌跡には、不穏な影があった。
 そんな中で代用教員としての生活、結婚、ある歌人との交友と自死をへて「サークル村」と出会う。谷川雁、上野英信、森崎和江らがいた。道子の思想的なバックボーンが形成された。上野は同人誌「熊本風土記」に掲載された道子の作品を中央の出版社に持ち込み、社会的に日の当たる場所に出した功労者である。終生の文学的同伴者となった渡辺とは、彼が創刊した「熊本風土記」への「海と空のあいだに」(後の「苦海浄土 わが水俣病」)掲載を通じて行動を共にするようになった。
 その渡辺を発信源とする面白いエピソードが紹介されている。

 1970年、「苦海浄土」の大宅壮一賞受賞が決まった時のこと。道子は水俣病患者のことを書いてこんな賞をもらっては苦しんでいる人たちに申し訳ない、と断ったが、渡辺は別の視点でこの賞はそぐわない、とした。「苦海浄土」はノンフィクションではなく私小説だと断言したのである。ここで書かれた患者の苦しみは、あくまで道子の体を通してのもの、ということらしい。
 言うまでもないが、純粋に第三者的、客観的に書かれたノンフィクションなど存在しない。どこかで書き手の心情を通した情景がまじりあっている。ひと頃ほどでないにしても、取材対象の内面に入り込むニュージャーナリズムとかノンフィクションノベルといったものは今も存在する。ノンフィクションと小説の垣根が限りなく低くなったいま、「苦海浄土」はこの範疇に属するのかもしれない。

 道子は3月11日に生まれた。88歳の誕生日を迎えた時、東日本大震災が起きた。これもまた、渚で起きた。大津波が街を襲い、福島原発をブラックアウトさせた。すべてが利潤に置き換えられた結果、近代合理主義が人と自然をのみこんだ。池澤夏樹も「昔、チッソ。今、東京電力」と2013年の講演で語った。二つの出来事は何かが共通している。

 前近代の共同体において道子は「異端の人」であった。一方で先駆的に「近代」に足を踏み入れた人でもあった。水俣病患者の間を歩き回り、その時のメモに基づいて何やら書く道子を地域は眉をひそめて見ていた。そんな彼女が共感した人物が高群逸枝で、評伝「最後の人 詩人高群逸枝」に結実した。高群は家事の一切を橋本憲三に任せ、女性史の研究にいそしんだ。その関係は道子と渡辺に似ていた。

 「女性蔑視」がニュースのキーワードになる時代である。しかし、かつてこんなに軽やかで強靭な、宇宙に届く言葉を持っていた女性がいた。そのことを確かめるためにも、ぜひ読みたい一冊である。
 新潮文庫、750円(税別)。


評伝 石牟礼道子―渚に立つひと―(新潮文庫)

評伝 石牟礼道子―渚に立つひと―(新潮文庫)

  • 作者: 米本浩二
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2020/06/05
  • メディア: Kindle版

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