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球体のナルシシズムが描いた「零度の狂気」~濫読日記 [濫読日記]

球体のナルシシズムが描いた
「零度の狂気」~濫読日記


 「金閣を焼かなければならぬ 林養賢と三島由紀夫」(内海健著)


 足利義満の権勢と栄華を伝える金閣寺は1950(昭和25)年、一人の青年僧によって焼かれた。動機なき犯行だった。僧は裁かれた後、精神分裂症(統合失調症)※を発症、隔離され結核で亡くなった。この青年僧、林養賢の精神に何が起きたか。それを再現したのが、事件の6年後に書きあげられた三島由紀夫の「金閣寺」だった。ノンフィクションではなく小説であるが、狂気の再現に見せた鮮やかな筆致は世間の驚嘆を呼び「金閣寺」は名作とされた。三島は作家としての地位を不動にした。
 「金閣寺」はこれまで数限りなく批評されてきた。記憶する限り、最も古いものは「モデル小説の限界をこえて、格調の高い思想小説」と書いた「殉教の美学」(1979年、磯田光一著)であるが、ここでは「金閣寺」の批評史に踏み入るつもりはない。

 「金閣寺を焼かなければならぬ」に注目したのは、精神病理学者のメスによって林だけでなく、三島自身も解剖されているからである。事件当時、林は発症の前段階にあり、本格的な症状は刑に服してからであった。三島は潜行していた林の病理を正確に把握、金閣寺放火に至る「動機なき道筋=絶対零度の純粋狂気」のありようを再現した。なぜ三島はここまで林の「狂気」に向き合うことができたのか。三島自身にも似た精神の土壌があったからである。
 著者の内海は、精神分裂症に至る病理を3段階に分けて説明する。分裂気質▽分裂病質▽分裂症―である。分裂気質はそれ自体で異常ではなく、必然的に分裂病質に進行するものではない。言い換えれば3つの段階に連続性はなく断絶がある。三島は分裂気質ではあるが、犯行時の林は分裂病質であった、といえるだろう。
 分裂病質であった林には、意識の裂け目から自我の実存というべきものが立ち上がった。そして自我の対極に絶対的他者が立ち上がる。普通の人間は意識を統合することで世界が認識されるが、そこにほころびが生じた場合、他者の放つ絶対命言に裸の自己が向き合わなければならない。それが林の精神の病理であった。絶対的他者として立ち現われたのは、金閣寺の「老師」だった。ただし、実在の人物ではなく三島の創作物である。
 普通、人間は「ただある」(=実存)という状態では「意味」を持たない。実存が言葉という他者とのアクセスによって「自己」として規定される。「われ思う、ゆえにわれあり」である。林の病理では、こうした通路がない。意識による因果応報というものはなく、動機も生じえない。実際、林は金閣寺放火の動機を明らかにしていないし、彼の心因を積み重ねて動機らしきものを構築しても意味はない。精神病理学でいえば、動機はあくまでも「後付け」である。
 では、三島が林と同じ精神の行程を歩まなかったのはなぜか。
 内海は、三島の精神構造を「球体のナルシシズム」を呼ぶ。意識世界は、認識の段階で既に完結していた。どこにも破たんがない。内海は「(自分には)無意識というものがない」という三島の言葉を引用している。すべてが明晰なのである。絵画でいう「無限遠点」(虚の点)、はるか彼方に「ある」が、描きえないもの、しかしそれを暗示させるもの、がない。無限遠点を意識させなければ、絵画は「外」を意識させることができない。これと同じことが三島の意識世界で起きていた、と内海は言う。したがって三島は、外部のない世界に入り込んでしまうか、逆に外部に出て、完全なる余剰となるか、のいずれかだという。絶対的他者が存在しない代わりに、現実との通路も見いだせない。
 なぜこのようなことが起きたか。内海は、現実世界より先に言葉の世界を完結させた三島の生い立ちがある、とする。この「球体のナルシシズム」の、剰余物としての自己を描いたのが「仮面の告白」である(タイトルに「仮面の」とつけたところに「自己を書く」ことの方法的隘路がある、と著者は指摘する)。意識の球体と現実との通路を見つけ出すことに絶望した三島が行き着いたのが、自らの肉体の改造であった。

 文芸評論家による三島文学の「腑分け」に慣れてきた身には、まことに興味深い分析である。と同時に、著者はただの精神病理学者ではなく、文学そのものにも極めて確かな「眼力」を持つように思える。得難い一冊である。

※現在は統合失調症。かつては精神分裂症と呼ばれた。旧名は症状を突きはなす響きがあり、実際に差別や誤解を招いた。しかし、著者は、そのことも含めて林養賢の置かれた位置と精神構造を明らかにするため、あえて「精神分裂症」を使うと注釈で述べている。もとより差別感情に基づくものでないことは明らかで、ここでも精神分裂症を著者の前提に準拠して使用する。

 河出書房新社、2400円(税別)


金閣を焼かなければならぬ


金閣を焼かなければならぬ

  • 作者: 内海健
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2020/06/20
  • メディア: 単行本



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