真実と虚構、皮膜一枚~濫読日記 [濫読日記]
真実と虚構、皮膜一枚~濫読日記
「雪の階」(奥泉光著)
「階」は「きざはし」と読む。雪の階段。雪に覆われた石段が、後半で重要シーンとして登場する。その場面を物語の象徴としていることが、タイトルから伝わる。
主人公は、笹宮伯爵家の令嬢惟佐子。たぐいまれな美女であり、囲碁は素人の域を超え、「数学世界」を愛読し、乱淫の血を継ぐ20歳。奔放な彼女の周辺で、不可解な事件が発生する。惟佐子の唯一といっていい親友・宇田川寿子と陸軍将校・久慈が、富士山ろくの樹海で心中死体として発見された。しかし、二人がそれほどの仲だったとは、と疑いを抱く惟佐子は事件の真相解明に乗り出す。
いわゆる11月事件(陸軍士官学校事件)を「去年の事件」と書いていることや、永田軍務局長斬殺事件(相沢事件)をさりげなく背景に置いていることで、時代は1935(昭和10)年からと分かる。このころ美濃部達吉の天皇機関説が論難の的になり、惟佐子の父・笹宮惟重は機関説批判の急先鋒として登場する。
こうした時代背景の中で、大河のようなもう一つの物語が進行する。惟佐子の「血」をめぐる物語である。彼女には伯父がいた。「狂人」とされた彼はドイツに住み、一冊の本を出す。「真正日本人とは何か」を問うものだった。荒唐無稽とも思われたが、そこに惟佐子の出自も関わっていた。
大小の物語が、絡み合い進行する。巧妙に時代のトピックが挟まれる。巻末の加藤陽子の「解説」の表現を借りれば「歴史の真実と虚構の被膜の巧みさに舌を巻く」。
そして時代の大河は、ある事件に収斂する。1936(昭和11)年の2.26事件である。陸大出・近衛師団と軍のエリートコースを歩む惟佐子の兄・惟秀大尉が絡むが、最終的に蹶起には加わらない。このあたりは三島由紀夫の「憂国」を思わせる展開である。
暗雲漂う時代の、浪漫主義的な人々の振る舞いと息遣いが、生きいきと蘇る。それは物語の巧みさに拠るだけではない。奥泉光の重厚で衒奇な文体に拠るところが大きい。
気になる一冊だったが、このたび文庫本化されたことを奇貨として読むに至った。
中公文庫、800+860円(税別)。
- 作者: 奥泉 光
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2020/12/23
- メディア: 文庫
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