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ヒトラー偶像化への皮肉~映画「お名前はアドルフ?」 [映画時評]

ヒトラー偶像化への皮肉~映画「お名前はアドルフ?」

 

 ドイツ人にとって我が子に「アドルフ」と名付けることはタブーだという話はどこかで読んだことがある。ヒトラーはドイツにとって重大な負の遺産なのだ。ナチスドイツの宣伝工作を研究する佐藤卓己は、こう書いている。

 ――ヒトラーを絶対悪の象徴とすることで、逆にヒトラーは現実政治を測る物差しになった。キリスト教世界においては、絶対善である神からの距離によって人間の行為は価値づけられてきた。19世紀にニーチェが宣言した「神の死」、つまり絶対善が消滅した後、あらゆる価値の参照点に立つのは絶対悪である。悪魔化されたヒトラーは、現代社会における絶対悪として人間的価値の審判者となったのである。

(「流言のメディア史」から)

 その「アドルフ」を我が子に付けようとする試みが小市民生活に巻き起こすさざ波を描いたのが「お名前はアドルフ?」である。

 典型的なドイツ中流家庭で開かれたパーティー。ホストはボン大学教授のシュテファン・ベルガ―(クリストフ=マリア・ヘルプスト)。現代文学を専攻する。インテリの雰囲気を醸し出している。妻エリザベト・ベルガー=ベッチャー(カロリーネ・ペータース)も国語教師。この夫婦を訪れるのはエリザベトの弟で実業家のトーマス・ベッチャー(フロリアン・ダービト・フィッツ)と女優を目指す恋人アンナ(ヤニーナ・ウーゼ)、それにエリザベトの親友で音楽家のレネ・ケーニヒ(ユストゥス・フォン・ドホナーニ)。

 アンナは出産間近。その子の名は?と関心が集まる。トーマスは、生まれる子が男だという前提で「アドルフ」とすることを告げる。あのヒトラーの名前である。よりによって、なぜ、と批判が渦巻く。

 パーティー後半、話題は転換する。独身を貫くレネの意外な恋人が発覚する…。この2段階のストーリー展開が、物語の単調さを回避させ、スリリングにしている。

 

 考えてみれば戦後75年である。ヒトラーを連想させる名前に今もこだわらなければならないのか。一方で、この一つのファミリーで議論される「アドルフ」のなんと記号化されていることか。そこにはヒトラーの「犯罪」も戦争の罪悪も見えない。あるのはアドルフという記号に対する拒否反応だけである。その中で本音と建て前の交錯。そのことが、後半のなぞ解きに影を落とす。

 

 重要なことは、ヒトラーをある時代の「象徴」としてではなく、等身大のかつて存在した一人の人間と見ることではないか。「アドルフ」を入り口にしたこの風刺劇は戦後75年、人々が作りあげてきた「ヒトラー」という偶像を笑い飛ばすことを求めているように見える。

 

 ちなみに、先の佐藤の著作では次のようにも書かれている。

 ――そこに温存される「絶対悪=ヒトラー」の審美的なイメージには警戒が必要だろう。ありあまる自由に息苦しさを感じる大衆にとって、フリーターから第三帝国総統に上りつめたヒトラーは価値を一発逆転させる「神」と映らないだろうか。(略)ヒトラーの悪魔化よりは人間化こそが必要なのだ。

 

 トランプ米大統領の例を待つまでもなく「悪魔」はいつ「神」に駆け上るか分からないのだ。歴史上の人物というより一人の人間としてヒトラーを笑い飛ばす、それこそが必要ではないか。その意味では、ヒトラーが現代に復活するという「帰ってきたヒトラー」(2015年)と重ねてみれば興味深い。場面転換はなく、セリフが命のこの映画、もともと人気を呼んだ舞台劇だったことはうなずける。2018年、ドイツ。



お名前はアドルフのコピー.jpg



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