「戦後」は終わったのか、を考えるために~濫読日記 [濫読日記]
「戦後」は終わったのか、を考えるために~濫読日記
「戦後史」(中村政則著)
「あとがき」によれば「戦後史」と銘打った著作は過去に1冊しかない。北村公宏著の上下2巻(筑摩書房、1985年)。刊行時期の関係で、中曽根康弘内閣までしか追いきれていない。その後、89年にベルリンの壁が崩壊、ソ連も消滅した。冷戦の終りは、日本国内の政治、経済にとってもインパクトのあるできごとだった。さらには、さまざまな歴史認識の書き換えにもつながった(少なくとも、つながるはずであった)。これらが2冊目の「戦後史」を書くに至った、主要なモチベーションだったことは想像に難くない。
著者の視点の特徴は、大きくいえば二つある。「貫戦史」論と「60年体制」論である。貫戦史とは、戦争を時代の絶対的な画期としない考え方。戦前と戦後を断絶させることなく、システムのつながりをあえて是認していく。米国の歴史家ジョン・ダワーもそうした考え方をとる。
そのうえで著者は戦後を4区分するが、重要なのは、敗戦から高度経済成長に至る時代区分である。朝鮮戦争、サンフランシスコ講和条約締結から保革再編による55年体制発足までをとらえて55年を区切りとする考え方もあるが、著者はあえて安保闘争の年、60年を区切りとした。後は、高度経済成長が終わる73年まで、バブルが崩壊する90年まで、湾岸戦争や9.11同時テロがあった時代―。ちなみに、あとがきが書かれたのは2005年5月3日。その時点までがカバーされていると考えられる。政権でいえば小泉純一郎内閣までである。
なぜ、第一と第二の時代区分を55年とせず、60年としたのか。著者はこう述べている。
――この時代にこそ外交、政治、経済、思想、文化の面で、50年代とは違う事態の出現を確認したからである。とくに重要なのは、貿易と資本の自由化、IMF、ガット、OECDなどへの加盟である。これによって日本は戦後はじめて「開放経済体制」の中に投げ込まれた。
狭い意味での「戦後」の終焉を60年に見ているのである。では、一般的な意味での戦後(広い意味での戦後)は終わったことになるのか。この問題を考えるには、いわゆるアジア・太平洋戦争とは何だったかを定義づける必要がある。この点について、著者は以下のように整理する。
①中国に対しては侵略戦争
②東南アジア諸国に対しては、謝罪
③英米仏蘭に対しては、帝国主義戦争で、日本だけが悪いのではない
④1945年8月のソ連軍の満州侵攻は、日ソ中立条約違反の侵略
こうしてみると、経済的な意味での「戦後」は終わったかもしれないが、対外的な意味での「戦後処理」は、まだまだだと思われる。特に、東南アジア諸国への「謝罪」が終わらない限り日本の戦後は永久に終わらない、という視点は、私も同感である。近年、ソ連の対日侵攻が一方的に断罪される傾向にあるが、もちろん背景にソ連の消滅(=社会主義勢力の退潮)があることは否めない。
小泉内閣までの「戦後史」では、現時点で不足ではないか、とする向きもあるかもしれないが、私はそうは考えない。それ以降の政権(特に安倍晋三内閣)で、検証に値する前進や成果がないからである。
このほか、歴史的事実の叙述にとどまらず、著者の個人的な体験、記憶に基づく印象、あるいは主張も各所に盛り込まれ、血の通った魅力的な「戦後史」と思われる。
岩波新書、860円(税別)。
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