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原作ほどにドラマ性はない~映画「蜜蜂と遠雷」 [映画時評]

原作ほどにドラマ性はない~映画「蜜蜂と遠雷」

 

 恩田陸の直木賞、本屋大賞受賞作を映画化した。原作は、文句なく世上の評価を得た作品だ。それを映画化して何の懸念があろう、と思われるのだが、私には一つ、引っかかるものがあった。

 ピアノコンクールでの天才たちの思いや振る舞いを描いた作品。そのためには、まず音楽自体のかたちを、文字という音から最も遠い表現手段によって手に入れなければならない。恩田は、そのことに並々ならない努力を傾注した。そのことは、幻冬舎文庫末尾に編集者の視点で志儀保博「『蜜蜂と遠雷』の思い出」として書かれていて興味深い。「音」を文字によって実体化するという、ほとんど不可能に近い作業によって「蜜蜂と遠雷」は成立した。

 ところが、今度はその作品を音と映像によって表現するという。いうまでもなく、音楽と映像は極めて親和性が高い。もちろん、それなりの上質な作品に仕上げるにはハードルがあるが、言葉によって作品を作り上げるよりはずっと労力は少なくて済むと思われる。180度反転させたものをもう一度180度反転させれば、元の位置に戻ってしまう。そんなことが映画「蜜蜂と遠雷」で起こりはしないか。

 観終わって、懸念は杞憂ではないと思った。

 ドラマでは人の主要なコンテスタンツが登場する。ペルーの日系三世マサル(森崎ウィン)、かつて天才少女と呼ばれ、挫折の経験を今も引きずる栄伝亜夜(松岡茉優)、謎の少年ジン(鈴鹿央士)、生活者の音楽を目指す高島明石(松坂桃李)。マサルはグローバリズムを象徴するように、今という時代の申し子的存在。亜夜は内面的葛藤を抱え、そのことがドラマの核心を形成する存在。そしてジン(塵)こそ、舞台回し役、いわばジョーカー的な存在。この3人は、いうなれば神に選ばれた存在で、彼岸に生きることを宿命づけられている。これに対して、此岸に立つのが高島である。

 こうして、キャラクタを見ると、ドラマとしてはよく考えられている。人の人間性をどこまで深く掘り下げられるかで、作品の価値が決まってくるといってもいい。

 しかし、原作者が苦労に苦労を重ねて手に入れたドラマとしての深みが、映画ではほとんど感じられなかった。マサルは、ただのアイドルのようだし、ジンの、聴く者の評価を真っ二つに分けるほどの不穏な演奏ぶりも伝わってはこなかった。亜夜と高島は、それぞれに内なる葛藤を抱えている分だけ存在感を維持することができたようだった。

 これはどういうことなのだろう。

 ピアノコンクールをめぐる「天才」たちのドラマを、文字で表現しようという不可能に近い挑戦を行った恩田に対して、映画製作スタッフ(石川慶という監督はよく知らない)は、音楽を音と映像で表現するという近道、あるいは浅瀬を何気なく渡ってしまってはいないか。

 原作でモチーフとしてたびたび登場する雨音、馬の蹄の音、そして標題にもなった遠雷は映像としても登場するが、果たしてそれが何を意味するかは観るものにうまく伝わってこない(蜜蜂は映像としても出てこなかったようだ)。「蜜蜂と遠雷」とは軽やかで重厚な音を出すピアノそのもの、ひいては音楽そのものを表すのだろうが、とてもその深淵が伝わったとはいいがたいのである。

 2019年、日本。

蜜蜂と遠雷.jpg

 


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