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冷戦下、若者の「理由ある反抗」~映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」 [映画時評]

冷戦下、若者の「理由ある反抗」~

映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」

 

 ベルリンの壁ができる5年前、1956年の東ドイツで起きた事件を題材にした。

 1956年がミソである。ハンガリー動乱の年。その3年前にスターリンが死去した。鉄の規律が緩み始め、民主化運動の狼煙が東ヨーロッパに上がった。ソ連軍によって鎮圧され、民衆数千人の命が奪われたとされる。1960年代半ばに発表された高橋和巳著「憂鬱なる党派」でも「ハンガリー動乱」や「スターリンの死」が、暗鬱な時代の象徴として登場する。

 しかし、亡くなった民衆は犬死ではなかった。1989年にベルリンの壁が崩壊した時、東ドイツ→ハンガリー→オーストリアという西側への有力な脱出ルートを形成する礎となった。

 映画に戻る。スターリンシュタットのある高校、進学コースにいる生徒たちが主人公。大学を出て党のエリートとして育てられることが約束されていた。その一人テオはある日、祖父の墓参と称して親友のクルトと西ドイツを訪れた。帰途、映画館に入った二人は、ニュース映画に衝撃を受ける。ハンガリーで民主化を求め民衆が蜂起、多くの命が奪われたというのだ。

 東ドイツに戻った二人はこのニュースの詳細を知ろうと、クラスメートのおじさんエドガーのもとを訪れる。そこで、西ドイツのラジオ放送RIASを聞くことができた。ソ連軍によって数百人の命が奪われたこと、有名なサッカー選手が亡くなったことなどが報道されていた。

 教室に戻ったクルトは級友に、ハンガリーの民衆のために2分間黙とうすることを提案する。「反革命だから許されない」という反対意見がある中、20人中12人の賛成で受け入れられた。直後の授業で黙とうは決行され、驚いた教師は校長に対処を求める。校長は不問に付す考えだったが、ほかの教師の密告によって郡学務局の知るところとなり、ついには国民教育相までが乗り出した。

 黙とうはハンガリーのためではなくサッカー選手のため、とクルトらは口裏合わせを図ったが、執拗な調べの中で事実が明らかになり、首謀者を出さねばクラスそのものを閉鎖すると最後通告を受ける。東ドイツでエリートとしての人生を歩むか、労働者として一生暮らすかの二者択一の問いであった。そこで、クルトらがとった行動は…。

 描かれたのは、自由な発想と意見が受け入れられない牢獄のような社会である。そして、印象的なのは、主人公である若者たちを取り巻く大人たちの背後にある「過去」である。テオの祖父がナチの武装親衛隊であったこと、テオの父親もかつて暴動に参加し、再起の機会を与えられていたこと、級友の一人の父が赤軍の英雄とされていたが、実は裏切者であったこと、市議会議長であるクルトの父が、実は密告者であったこと…などである。そうした過去が大人たちを縛り、血の通わない社会を作り上げてきたことを、クルトやテオは知る。ちょうどハンガリー動乱の前年、1955年には米国でジェームス・ディーンの「理由なき反抗」が封切られたが、さしずめこの「僕たちは―」で描かれたのは「理由ある反抗」というべきものだろう。

 なお、邦題はいかにも第三者が後付けでつけた印象がある。もし当時の時代に寄り添うのであれば、ドイツの原題「沈黙の教室」もしくは英語のタイトル「沈黙の革命」がふさわしく思える。

 2018年、ドイツ。

 


僕たちは.jpg

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