三島の虚無の深さをみる~濫読日記 [濫読日記]
三島の虚無の深さをみる~濫読日記
「三島由紀夫 ふたつの謎」(大澤真幸著)
三島由紀夫は1970年11月25日、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面隊総監部で建軍の本義に戻れと自衛隊員の蹶起を促し、激しいヤジを浴びた末に割腹自殺を遂げた。三島の長編小説「豊饒の海」の擱筆の日でもあった。
社会学者・大澤真幸はこの時、小学6年生であったという。当然ながら事件の本質を受け止められず「何かただならぬこと」が起きたと感じたと述べている。三島の代表作「金閣寺」を読んだのは、16歳の時だった。
「三島由紀夫 ふたつの謎」の「まえがき」で大澤は「哲学的な知性」「芸術的な感性」という二つの側面で三島は「近代日本の精神史の中で最も卓越した創造者の一人」との見方を示している。そのうえで三島の割腹自殺に疑問を呈する。なぜあれほど稚拙な演説を行い、愚行ともいえる自裁の方法をとったのか。もう一つは、長編小説「豊饒の海」第4部「天人五衰」を、あれほどまでに全編を激しく否定するほどの終わらせ方にしたのか。
標題の「ふたつの謎」とは、このふたつである。70年のこの日、三島がのぞかせた心の闇を、全編ミステリーのようなタッチで大澤は追う。大澤は社会学者である。決して文学者としての三島を分析してはいない。プラトンやカントを援用し、あるときは「三島の哲学~唯識論」を、あるときは「美」に対する想念を丹念に解析していく。
菅孝行の「三島由紀夫と天皇」が三島の天皇論を基軸において作品と行動を意味づけしたのに比べ、アプローチが込み入っていることは間違いない。
「豊饒の海」は輪廻転生の物語であるが「天人五衰」は最後に、転生ではない偽物の主人公が出てくる。そのことを発端に、前3巻の物語までが否定される。これでは、大澤の言葉を借りれば「詐欺」になる。菅は、転生の物語の主人公を天皇になぞらえ「豊饒の海」の最後に描かれたのは戦後の人間天皇への幻滅だったとしたが、大澤はその立場をとらない。
三島はこの結末を、いつの時点で想定したのか。最初から、ということは、おそらくなかっただろう(最初から想定されていたという批評も、大澤は紹介しているが)。第4巻で「偽物」を登場させるにしても、そこから再び「本物」へと転換し結末に至る、という筋書きは当初あったのではないか。しかし、書き進むうち、三島は深い虚無の世界に陥った。そこから逃れるすべを持たない深い虚無の世界に。大澤はそうみた。
三島は、一貫して「虚無」を抱えた作家であったと大澤はみた。虚無の深さが、一連の三島作品を支えてきた。その中で「金閣寺」の、僧が放火に至る心理過程にこそ、70年11月25日の蹶起への萌芽があったとする。美の象徴である金閣寺を、火を放つことで崇高な理念としての美にする。同じことを「天人五衰」のラストでも展開した。そして市ヶ谷では、自ら鍛え上げた肉体を自刃によって滅びさせた。大澤の言葉によれば「有意味な死」がそこにあった。しかし、大澤によれば二つのことは、現象としてはつながっていない。前者は絶対的な静謐の世界であり、後者は無意味な騒々しさであった。ただ「豊饒の海」は実は不毛の海であり、背後にあったのは深い虚無だった。これが大澤のたどり着いた地平であった。
集英社新書、940円。
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