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スパイ小説の巨匠の虚と実~濫読日記 [濫読日記]

スパイ小説の巨匠の虚と実~濫読日記

 

「ジョン・ル・カレ伝」(アダム・シズマン著)

 

 むかし、ドイツを訪れた際にベルリンの壁を見て、20㌢ぐらいだっただろうか、意外な薄さに驚いたことがある。東西冷戦下、こんな薄い壁が鉄のカーテンの象徴であったのか、といった驚きであった。逆に言えば、この程度の壁さえ越えることを困難にさせる冷戦の非情さを思い知らされた、ともいえた。この壁を舞台装置として取り入れ、書かれたのが「寒い国から帰ってきたスパイ」(1963年)だった。東西間の冷徹な諜報戦を描き、英国の元諜報部員だったイアン・フレミングが書いた007シリーズとは全く違う、リアルな描写が世界に衝撃を与えた。主人公はボンドとは真反対の、さえない中年男であった。書いたのは、やはり英国諜報部員の経験を持つデイヴィッド・コーンウェルだった。

 デイヴィッドはペンネームを「ジョン・ル・カレ(JOHN le CARRE)」とした。本名はこれ以上ないほど英国的だが、ペンネームは英国風とフランス風が入り混じって謎に満ちている。「寒い国から…」があまりに衝撃的だったため、ベルリンの壁がなくなった1989年当時には、「ジョン・ル・カレ」はこの後、何を書くのだろうか、といった文章がメディアを賑わしたのを覚えている。

 しかし、デイヴィッドはしたたかに、国際情勢を追いながら次々と世界に作品を問い続けた。冷戦から中東へ、そしてアフリカへ、さらに米国の「テロとの闘い」へと視線を移しながら。気づけばデイヴィッドはいま80代半ばを越し、50年余りの間に22の小説を世に出した。しかし、作品の評価はいまだに確定しているとはいいがたい。国際諜報戦を主舞台とする、いわゆるジャンル小説なのか。それとも、文学なのか。そして、ジョン・ル・カレ自身、いったい何者なのか。

 

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 そしてこのほど、世に出たのが「ジョン・ル・カレ伝」である。書いたのは伝記の達人アダム・シズマン。上下2冊、相当のボリュームである。デイヴィッドの小説にはしばしば、不要に長く、複雑であるとする批評がついて回るが、この評伝もまた、不要かどうかは分からないが、長く詳細・精緻で複雑である。読後感はデイヴィッドの小説のそれそのものである。

 あまりにも詳細、膨大であるため内容をピックアップして紹介することは困難だが、ひとことでくくるなら、作家「ジョン・ル・カレ」はいかなる成分によって出来上がっているかを丹念に追ったのがこの評伝だといえようか。そんな中で、詐欺師だった父レニー、オクスフォード時代の恩師ヴィヴィアン・グリーンとの関係が濃密に描かれる。彼らは、デイヴィッドの人格形成に強く影響しただけでなく、作品の中にも重要なキャラクターとして登場する。父親の残像は「パーフェクトスパイ」に、グリーンの横顔は「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」のスマイリーに転用された。

 すべての作家は、処女作を越えられない、という言葉がある。「寒い国から…」(厳密な意味では3作目で処女作ではないが)で一気に名声を得たデイヴィッドもまた、この衝撃作を乗り越えるべく悪戦苦闘したもようが、全体を通した一本の線として描かれている。

 デイヴィッドはある時期、作家で脚本家のジェイムズ・ケナウェイ、そして彼の妻スーザンとの交流の中で不倫関係に陥った。そのことを含めたシリアスな自伝的小説「The naive and Sentimental Lover」を書いたことがある。一部で「傑作」との評価を得たものの大方の評価は芳しくはなかった。「破滅的な失敗作」としたものさえあった。どうやら、この作品の評価が、その後のル・カレの行方を決めたようだ。米国と欧州の市場は、ル・カレに、スパイ小説のジャンル作家として生きるよう求めたのである。

 この評伝の後、ル・カレ自身の回想録「地下道の鳩」が出版された。しかし、日本語版は回想録が評伝に先んじて出版された。翻訳作業の都合によるものだろうが、なんともおさまりの悪いことになった。ざっと見渡して「回想録」は本人の記憶に頼った部分が多く、評伝はその分、実証的である。したがって評伝の方が正確ではないか、と思える部分が多々ある。それはそれとして、二つを読み比べるのもいいだろう。ただ、評伝と回想録二つを読んでもなお、当初の疑問符は外せないでいる。すなわち「ジョン・ル・カレとは何者か」―。

 

ジョン・ル・カレ伝 上

ジョン・ル・カレ伝 上

  • 作者: アダム シズマン
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2018/05/25
  • メディア: 単行本
ジョン・ル・カレ伝 下

ジョン・ル・カレ伝 下

  • 作者: アダム シズマン
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2018/05/25
  • メディア: 単行本

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