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つくり上げられた「独裁者」~濫読日記 [濫読日記]

つくり上げられた「独裁者」~濫読日記

 

「言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」(佐藤卓己著)

 

 戦時中、出版界に籍を置いたものならだれ一人知らぬものはない将校がいた。「小型ヒムラー」と恐れられ「サーベルと日本精神を振り回しながら」「蛮勇をほしいままにした」(美作太郎「言論の敗北」)という。こうした証言に「時代劇の悪代官」のイメージを持った佐藤は、戦後ジャーナリズム史を研究するうえで避けて通れない人物としてこの男、鈴木庫三の実像を明らかにしようと企てる。しかし、彼が残した手稿や日記を読み通して、その人物像を一変させる。

 戦時ファシズム体制という特殊で異常な環境のもと、その人物像が等身大でなくモンスター化して後世に伝えられるケースはいくつもある。代表的な事例はナチスドイツでのアイヒマンであろう。アウシュヴィッツ強制収容所長として数百万人のユダヤ人をガス室へ送る指揮を執ったとされる。戦後、逃亡先のアルゼンチンでイスラエル諜報機関が逮捕、エルサレムで裁判にかけられ死刑判決を受ける。傍聴した政治学者ハンナ・アーレントは、彼は悪魔的な心情の持ち主ではなく、どこにでもいる小役人にすぎないと米誌「ニューヨーカー」に寄せたリポートで明らかにした。

  ――彼(注:アイヒマン)は常に法に忠実な市民だったのだ。彼が最善をつくして遂行したヒットラーの命令は第三帝国においては〈法としての力〉を持っていたからである。(H・アーレント「イェルサレムのアイヒマン」)

 ホロコーストは凡庸な役人によって善悪の判断の外側で行われた(このくだり、どこかの国の官僚の答弁をほうふつとさせる)ことを明らかにした。

 では、ヒムラーに擬せられた鈴木庫三はいかなる人物であったのか。鈴木という中佐(この階位は奇しくもアイヒマンと同じである)を等身大で描く。これが、この著書のモチーフである。

 まず、佐藤はこう書く。

 ――戦後は強い軍部が弱い知識人をいじめる、「ペンは剣より強し」という構図が議論の前提である。はたして、この前提は正しいのだろうか。軍人と知識人は、いずれの社会的地位が高かったのであろうか。いずれにせよ、鈴木少佐にとって知識人は弱者ではなかった。

 軍部という強大な勢力を背に一人の将校が出版業界に無理難題を押し付けた。「知識人」はそれに抗するすべがなかった―。こうして「被害者」になりおおすことで、戦時中の言論活動への「アリバイ」を仕立てることは簡単である。しかし、こうした思考に異議を唱えて佐藤は膨大な文献を渉猟、事実を追っていく。

 1949年、毎日新聞で石川達三の「風にそよぐ葦」の連載が始まった。中央公論社長・嶋中雄作と評論家・清沢洌をモデルに、軍部による言論弾圧の歴史を振り返った。この中で「情報官佐々木少佐」として描かれる鈴木は「傲然と椅子の背に反りかえって」「険悪な目つきをして」いる、と恣意的な描写がなされる。そして「年のころまだ三十二三にしかなるまい」と紹介される。実際には、このやり取りがあった1941年、嶋中社長と鈴木はともに40代だったが、「親子ほどの年の違い」と形容される。年少の将校が出版社社長に向かい「君のような雑誌社はぶっ潰すぞ」と傲然と言い放つ。

 連載は大好評で、前後編通算545回の長期にわたった。その後メロドラマとして映画化され、言論弾圧は後景に退いたものの、その風景は大衆的「常識」にまでなる。しかし、この話はどこまでが事実でどこからが脚色であろうか。「神話解体の名手」といわれるメディア研究者・佐藤の緻密な分析が始まる。

 ここで、佐藤は石川のこんな視線を紹介する。

 ――勝った時にはみんなが軍国主義者になってしまう。もしも負けたらみんな反戦主義者になるだろう。それが庶民というものだ。

 反戦主義者でも、ましてや共産主義者でもない、単なる流行作家である石川達三の横顔を、佐藤は浮き彫りにする。

 ここから佐藤の筆は、鈴木の生い立ちに向かう。貧困の幼少期、苦学生として陸大への道を断たれた将校養成システムの実態。これらを見ると、出版業界と知識人へにらみを利かせる若手エリート将校、という「鈴木像」が虚像であることが浮かび上がってくる。

 戦後、知人を頼って熊本に移り住んだ鈴木は公職追放が解けぬままサンフランシスコ講和条約による日本独立を迎える。

 ――一度メディアが報じた「悪名」を訂正することは至難である。戦後、一農民となった鈴木には反論すべき手段も機会も与えられてはいなかった。

 「あとがき」で佐藤は次のように書く。ここに言いたいことの核心がある。

 ――たとえば、「日本思想界の独裁者」を設定することで、言論にたずさわった人々は全員程度の差はあれ「被害者」となりおおせた。つまり、鈴木庫三という「敵の名前」を出しさせすれば、みんな被害者仲間になれたのではなかったか。

 鈴木は1964年、東京オリンピック直前に、約10年の闘病の末亡くなった。その後の日本の行方を、鈴木は彼岸からどう見ていたのだろう。熊本日日新聞のコラムにある情景が紹介された。

 ――貝のように口を閉ざし、その動静はほとんど分からない。1960年ごろ、「自分の行動は正しかった」と病床で絶叫する姿がNHKで放映されたのが唯一の例外。「熊本に逼塞した鈴木が何を思い、どうしていたのか。戦後十数年を経て自説の正しさをテレビで叫ぶ気になったのはなぜだろう」と佐藤さん。(以下略) 

中公新書、980円(税別)。

【注】ここで取り上げた中央公論社との懇談では鈴木庫三は少佐だったが、直後に中佐に昇進している。にもかかわらず、その後の鈴木を多くの証言が「少佐」としていることに佐藤はある意図を感じているが、ここではその問題に触れていない。したがって文中に「少佐」と「中佐」が混在し分かりにくくなったが、ご容赦願いたい。

 

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)

  • 作者: 佐藤 卓己
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2004/08/01
  • メディア: 新書

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