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歴史的事実を法廷で確定するという違和感~映画「肯定と否定」 [映画時評]

歴史的事実を法廷で確定するという違和感~

映画「肯定と否定」

 

 アウシュビッツでのホロコーストはあったのか、なかったのか。確かに、虐殺されたユダヤ人の数は誇張ではないか、ガス室は本当にあったのか、との歴史論争がないわけではない。しかし、「あったのかなかったのか」と問えば、その事実は否定のしようがない。あったのだ。日本にも同様の議論がある。南京大虐殺である。南京事件の場合、国際的に認知された経緯に疑問を挟む向きがあり(石川達三の小説「生きてゐる兵隊」が国際的に知られる基本テキストになったという経緯のことである)、犠牲者数への疑問だけでなく、「事件」そのものがなかった、という極論まで出ている。

 ナチスによってアウシュビッツ強制収容所(後に絶滅収容所)で何が行われたかの論争が法廷に持ち込まれた。英国人作家デイヴィッド・アーヴィング(映画ではティモシースポール)が1996年、米国人作家デヴォラ・リップシュタット(同レイチェル・ワイズ)と出版社を相手取って英国内で起こした名誉棄損訴訟である(映画では、提訴は2000年と設定)。

 この裁判をベースに映画は作られた。ただし、原告、被告とも作家ではなく歴史学者とされている。ホロコースト否定論を批判したリップシュタットの著作に対して、アーヴィングが英裁判所への提訴という手段で反撃に出る。英国の法廷では被告側に立証責任があるという(変な話だ。「推定無罪」の原則がないがしろにされている)。困難な立場に立たされたリップシュタットだが、法廷で自らは議論の前面には出ず、弁護団の手に闘いを委ねる。抽象的な否定・肯定論を闘わすのではなく、証拠によって地道な議論を重ねるためだ。その結果、最終的にホロコースト肯定派のリップシュタットが勝利、ヒトラー待望論を説くアーヴィングが敗れる…。

 映画での、「ホロコーストはあったのか、なかったのか」という歴史認識をめぐる論争が法廷に持ち込まれた、という設定には違和感がある。もともとは作家間の名誉棄損訴訟であった。法的に問題にされたのは、ホロコーストの事実を、自らの歴史観に沿って軽視、ないしはあいまいにする(つまり脚色する)行為がどの程度まで許容されるかであったように思う。許容範囲内であればホロコースト否定論者という形容は名誉棄損にあたるし、範囲外であれば名誉棄損にはあたらないことになる。このあたりの細かい点はすっ飛ばして、映画は「ホロコーストはあったかなかったか」というストーリーの運びにしている。このほうが分かりやすいのは確かだが、これはやはり無理がある。歴史的事実の認定をめぐっては、最終的に歴史学者に任せるしかないと思われる。

 そんなわけで、分かりやすさを優先したつくりのため、歴史認識は誰が決めるのか、という点や、歴史論争と法廷ドラマのどちらに軸足を置くのか、といった基本点がややあいまいになったという印象がぬぐえない。2016年、英米合作。

 

否定と肯定.jpg


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