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「批評」の再構築へ向けて~濫読日記 [濫読日記]

「批評」の再構築へ向けて~濫読日記

 

「批評メディア論 戦前期日本の論壇と文壇」(大澤聡著)

 

 テーマは「批評とは何か」である。そのことを追究するため、テクストを1930年前後に求めた。なぜこの時代なのか。文壇に対する論壇が形成され始めたころだからだ。この時代、文壇に対峙して論壇が成立する(ただし、論壇は文壇ほど自明的な存在ではなかった)とともに、アカデミズムとジャーナリズムの相互浸食が始まる。「壇」をめぐり、混沌としたメディア状況が生まれた。

 こうした問題意識のもとで、何をどう展開するか。我々凡人であれば、さまざまな分野のコンテンツを比較検討し、その文脈を浮き彫りにして時代的な展開と接続を考える。しかし、この書は、その方法においてまったく違っていた。

 そもそも、批評(メディア)論とは何か。批評は論であり、批評論もまた論である。そうであれば、コンテンツを文脈化することの限界性はおのずと明らかになる。批評論もまた、批評に取り込まれるからだ。著者はそう考えた。だからこそ著者は批評をめぐる時代的環境と、そこから導き出されるメディアの構造、その中で生み出される現象としての「論」のありようを浮き彫りにしようとした。 

 文学は、文壇が形成される前から存在した。それゆえに、文学を志向する共同体としての文壇共同体=ギルドが形成された。ここに商業的言論ジャーナリズムが登場することで、ジャーナリズム文壇(書の表記では「ヂャーナリズム文壇」)が仮構される。「文壇」は、文学に限定された問題ではなくなり、論壇と文壇、アカデミズムとジャーナリズムを共通のプラットフォームでとらえることが必然になる。このことを、著者は「言論や批評のアーキテクチュラルな位相」への旋回ととらえ、メディアの持つ「メッセージ性」(マクルーハンからの引用) の解析こそ課題であるとした。こうして著者は、極めて乱暴に言えば、批評のありようを大きく二つに分類する。一つは小林秀雄に代表される私批評(主観に基づく批評、文学論を拡大させたもの)、もう一つは大宅壮一らに代表されるジャーナリズム批評(ゴシップを伴う)である。

 しかし、こうした著者の思考の経緯をこれ以上具体的に書くことは、あまり意味を持たないだろう。書の主眼は思弁的な経緯ではなく、メディアの構造的側面の解明にあるからだ。書の分析の一部を引用することは、対象物の構造の一部を取り出すことに似ている。

 ただし、こうは言えるだろう。「批評」が成立し始めた時代のメディア構造を明らかにすることで、ではいま、批評は成立しているのか、成立していないとすれば、我々には何ができるのか、それを問うているのだ、と。

 岩波書店、2200円。


批評メディア論――戦前期日本の論壇と文壇

批評メディア論――戦前期日本の論壇と文壇

  • 作者: 大澤 聡
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/01/21
  • メディア: 単行本

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