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「どこまでも対米追随」の愚かさ~濫読日記 [濫読日記]

「どこまでも対米追随」の愚かさ~濫読日記

  

「アジア辺境論 これが日本の生きる道」(対談 内田樹×姜尚中)

  

 内田樹の著書に「日本辺境論」(新潮新書、2009年)がある。内田と姜尚中の新刊は「アジア辺境論」である。この2冊のタイトル、似ているようでかなり違っている。一方は「日本(はアジアの)辺境」論であり、一方は「(日本は)アジア(の)辺境」論である。しかし、タイトルの含意は違うが、主語はともに「日本」であり、つまりは「日本(国)」とは何かを問うという底流において2冊はつながっている。

 「アジアの辺境」である日本はどこに向かう(べき)か。これが対談のメーンテーマになっている。それを考えるうえでの最大の要因は、行きつくところまで行きついた資本主義(=グローバリズム)とどう向き合うか、であろう。そこでの世界的な現象として、アメリカの没落→自閉化がある。それは「世界の警察国家」の不在を生み、中国、ロシア、アメリカの危ういバランスの上に立った世界秩序の維持が模索される。二人の論客もまた、そうした構図の中で、日本の針路を探る。

 そこで、内田は米中露の大陸型「帝国」とは違った「周辺=ニッチ(隙間)」としての国のありよう(経済・安保政策)を韓国、台湾とともに探るべきだと主張する。

 近年、核実験やミサイル実験を繰り返す北朝鮮に対して、安倍晋三政権は「軍事的脅威」を強調、「軍事オプション」をもちらつかせるトランプ政権に対して「日米同盟の一体化」を公言してはばからない。しかし、これは少し違うのではないか、と思う。アメリカは既に、かつてのアメリカとは違う。少なくとも世界の覇権国家であることを重荷に思い始めている。だからこそ日本はいま、独自路線を歩むべきなのだ。この点は内田、姜とまったく一致する。

 では、アジアの辺境国家としての日本は韓国、台湾と外交、安保で連携することはできるのだろうか。姜が丸山真男の顰(ひそみ)に倣(なら)って「日米安保の実在よりも、アジア辺境の虚妄にかける」としているが、現時点ではこの認識が当たっているといえようか。

 中国、ロシア、ヨーロッパはかつての「帝国」の版図(清末期、ロマノフ、神聖ローマ)におさまり、資本主義の終焉を迎えた世界は緩やかに中世化するという二人の説はとても興味深い。水野和夫、エマニュエル・トッドの説あたりも、この中に包含されると思われる。

 こうしてみれば、北朝鮮情勢をにらみながらどこまでも米国一筋という現政権の先見性のなさ、愚行ぶりは明らかといわざるを得ない。

 こうしたテーマを立てた場合、かつてのアジア主義とどう向き合うのかという問いを避けて通れない。姜尚中が竹内好の「方法としてのアジア」にわずかに触れているが、この問題も正面から論じるべき課題だろう。アジアはアジアとしての実体を持ちうるのか。アジアという普遍的な共同体が成立するとしたところにかつての過ちがあったのではないか。西欧に対してのみアジアはアジアであり、だからこそ西欧的価値体系を「アジア的なるもの」を通すことで昇華出来る、というのが竹内の視点である。



アジア辺境論 これが日本の生きる道 (集英社新書)

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  • 作者: 内田 樹
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2017/08/19
  • メディア: 新書

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