「家庭とは何か」をめぐってもがく人たち~映画「幼な子われらに生まれ」 [映画時評]
「家庭とは何か」をめぐってもがく人たち
~映画「幼な子われらに生まれ」
重松清の原作である。彼の小説を読むとき、感じることが二つある。心理劇の名手であること。セリフの名手であること。しかし、この二つの特長は、それぞれ別個のことではない。おそらく、一つのことの裏表であろう。心理劇の名手であるからこそ、記憶に残るセリフの数々を生み出すのだろうと思う。
たとえば、こんなセリフがある。
「…訊かないのね」
「なにが?」
「いまの私の気持ち。(略)全然興味ない?」
「そういうわけじゃないけどさ、でも、そんなこと…」
「昔からよ、あなた、理由は訊くくせに、気持ちは訊かないの」
眼前の逃れられない事象に対する男と女の向き合い方、距離の取り方についての違いが、見事にセリフに込められている。ここでの事象とは、二人の間にできた子の堕胎であるが、女性はその行為に秘めた哀しみまでも理解してほしいと願う。男は二人の間の距離に無頓着なまま、「なぜ」という問いの形で行為の意味だけを探ろうとする。
もちろん、このセリフも映画の中で生かされている。
平凡なサラリーマン田中信(浅野忠信)は、学生時代から付き合っていた友佳(寺島しのぶ)と結婚、2年半で別れる。研究者を貫こうとする友佳とのすれ違いのためだ。信はその後、奈苗(田中麗奈)と再婚。奈苗には二人の女の子(薫と恵理子)がいた。別れた友佳との間にできた沙織とも定期的に合う機会がある信は、3人の女の子に対する微妙な感情的違いを抱えながらも、新しい「家庭」を支えていこうと思う。
そんな時、奈苗に子ができたことが分かる。祝福されるべきニュースはしかし、思春期を迎えた薫に動揺をもたらす。薫は今の家庭を「ウソ」だといい、「パパは一人でいい、本当のパパに会いたい」という。信は「本当のパパ」である沢田隆司(宮藤官九郎)と連絡を取り、薫に会わせようとする。一方で友佳の再婚相手である男性は末期がんであることが分かる。
二組の家庭の中での、血のつながった親子とつながらない親子のねじれた関係。「うそ」の親子と「本当」の親子。そんな色分けに意味はあるのか。血がつながらなければ本当の家庭は築けないのか…。
こうしたテーマで物語が構成される場合、複雑な家庭の事情に押しつぶされて少女たちが非行に走り…といった「社会的」なストーリーになりがちだ。しかし、重松原作のこの物語は、関係者の微妙な心理の襞を徹底的に描こうとする。だから登場人物たちは変にぐれたりはせず基本的に誠実であり、問題に正面から向き合おうとする。そして、原作にも映画にも、明快な回答らしきものは提示されない。「家庭とは何か」という問いに対してひたむきに向き合い、もがき努力する一群の人々の姿が提示されるだけだ。しかし、それで見終わったときの充足感は十分に得られるのである。
最後に、原作と映画の違いについての蛇足を二つ。
奈苗の前夫・沢田は、原作ではギャンブルにはまり込むサラリーマンだったが、映画ではやさぐれた料理人に変えてあった、「絵」としてはその方が面白いかもしれないが、奈苗の結婚相手が少し崩れた料理人から平凡なサラリーマンというのは少しギャップがある。
家庭内の「叛乱」に疲れた信が一人カラオケにはまるシーンがあるが、原作では風俗店の変身プレイにのめりこむことになっている。映画の設定では疲れた心を解放する、という意味合いしか持たないが、原作では「家庭」という重荷を脱ぎ捨てたいのだ、という信の心情がその裏側にあるように思う。つまり、設定に込められた意味の深さが違っている。
そんな気になる点もあるが、生みの親か育ての親かを問いかけた「そして父になる」(是枝裕和監督)を想起させるレベルの作品であることは確かだ。三島由紀子監督。二人の女性とその子への対し方を微妙な表情の違いで見せる浅野の演技が秀逸だ。
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