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ジャーナリズムの本筋を行く~濫読日記 [濫読日記]

ジャーナリズムの本筋を行く~濫読日記

 「日本会議の研究」(菅野完著)

日本会議の研究.jpg 「籠池騒動」がテレビのワイドショーを賑わせている。いち小学校の不透明な設立経緯に端を発し、渦中の籠池泰典氏の、幼稚園児に教育勅語を暗唱させるなどユニークな教育方針がテレビ・バラエティの波長にピタリはまった感があり、そこに「私と妻がかかわっていたら議員も首相もやめる」という安倍晋三首相の無防備な発言(裏側にあるのは、長年「一強」といわれ続けたことからくる傲慢さ)が重なって、着地点が見えない。国有財産の恣意的な処分という疑惑が本筋にあって無視はできないのだが所詮、小学校の設立をめぐる疑惑というフレーム自体は揺るぎそうにない。行きつくところまで行けば下火になるであろう、ぐらいの感覚で眺めている。
 しかし、騒動の周辺で何やら薄気味悪いものが見え隠れする。「瑞穂の国」を名前にかぶせたうさん臭い小学校建設に、なぜ安倍首相夫人はこんなにも無防備に手を貸したのか。とっくに葬り去られたはずの「教育勅語」を、なぜ稲田朋美防衛相はわが身を顧みず?擁護するのか。天皇が教育方針に訓を垂れ、かつ国家と天皇のために命を捨てろというのが憲法違反でないという理屈は、どこをどう押したら出てくるのだろうか。稲田答弁は明白な憲法擁護義務違反であるし、教育勅語を教育現場で使うことを否定しないという閣議決定もまた、憲法擁護義務違反である。こんなことがまかり通る世情は、いつの間に醸成されたのだろうか。
 そんなことをつらつら思っていたら、ある人物が籠池さんの周辺から出てきた。著述業・菅野完氏である。その著作「日本会議の研究」は、一度読んでみなければ、と思いつつ時間が取れないまま「積読」状態にあった。ここにきてようやく、この一冊は情況と交錯した。「日本会議」こそが、今日の薄気味悪い世情の底流をなすものではないか。
 日本会議もだが、菅野氏自身、極めて興味深い足跡である。もともと「左」の活動家であったが転向し、米国の大学を出て一般サラリーマンをやりながら、著述業に足を踏み入れたといわれる。菅野氏が「日本会議の研究」を書くに至ったこうした経緯は、一応頭に入れて読んだほうがいい。つまり、大手メディアの書き手のようにきちんとした取材体制や協力者を得ながら書かれたものでない、ということである。それは別段、菅野氏を貶めるために言っているのではない。「はじめに」で本人も言っているように、通読すれば読みづらいところが各所にある。しかし、それはコツコツと独力で書き溜めた末のことだと思われる。変につるりとしているより、ごつごつざらざらとした触感にこそ、この著作の価値がある。
 そうした「手作業」感がにじむ本書はしかし、「日本会議」というこれまで誰も足を踏み入れることのなかった草の根保守の実体に極めて肉薄しているように思う。全共闘運動が吹き荒れた1970年ごろの長崎大で展開された保守による奪還闘争に日本会議の源流を見、思想的バックボーンとして「生長の家」があったことを浮き彫りにしたあたりは、ジャーナリズムの本筋を行く感がある。安東巌という一人のイデオローグに行きついたあたり、圧巻の筆の冴えである。
 今日、牙を抜かれた大手メディアが「バラエティショー」の枠組みの中で「籠池騒動」をとらえる中、こんな骨のあるジャーナリストが「在野」に潜んでいる。なんとも皮肉なことである。
 扶桑社新書、800円(税別)。

日本会議の研究 (扶桑社新書)

日本会議の研究 (扶桑社新書)

  • 作者: 菅野 完
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2016/04/30
  • メディア: 新書

 


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