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海という不条理の世界~濫読日記 [濫読日記]

海という不条理の世界~濫読日記

 「漂流」(角幡唯介著)

漂流.jpg 未踏の渓谷に足を踏み入れた「空白の五マイル」や、北極海横断を試みて悲惨な結末を迎えた探検隊の跡を追った「アグルーカの行方」の著者角幡唯介が、「漂流」をテーマにした一冊を世に問うた。角幡は、自らの肉体を自然にさらしてぎりぎりの冒険を重ねる中で、生と死の感覚が複雑に入り組んだ内面を凝視できる数少ない探検家=ライターである。今回は海を舞台に、ある漂流者の体験を追いながらそうした生と死の世界を描写して見せたに違いないと勝手に思っていたら、違った。もっと厚く、深みのある世界がそこにあった。
 角幡が「漂流」体験に関心を持った動機はよく分かる。これまで彼が重ねてきた「自然に翻弄される人間」という体験の極致にあるのは「漂流」体験ではないか、と誰しも思う。そこで、彼は「漂流者」の手がかりを求めてリサーチに入る。浮かび上がったのが、37日間グアムからミンダナオまで2800㌔を漂い、奇跡の生還を遂げたという沖縄のマグロ漁師である。角幡が漁師の妻に取材の申し込みをすると、返事は意外なものだった。漁師は帰還から8年半後、再び海に出たままいまも行方知れずだという。これほどの体験をした男が、なぜ再び海に出たのか。一体、どこを漂流しているのか―。
 ここから、綿密で膨大な取材が始まる。その漁師、本村実の出身地、伊良部島・佐良浜のこと。そこは古くから漁師の里であり、漁師気質の血が脈々と流れる土地であること…。ある漂流体験を追いながら、一人の漁師を生んだ風土にも迫ろうという角幡の試みは、時に漂流しているのは誰か、という思いさえ、読む者に抱かせる。漂流しているのは角幡なのか、それとも読者なのか。終戦直後の、積み荷の爆弾目当ての沈船漁りで命を落とした多くの浜の男たち、南太平洋のマグロ漁で一獲千金の末に無一文になった男。海は多くの男たちの人生を狂わせた。その中に本村実もいた。
 本村実は、ニライカナイに旅立ったのではないか。ニライカナイとは沖縄で信仰されてきた他界、常世である。海に出た漁師たちに寄り添う不条理の国。そういえば、佐良浜のもともとの起源は、補陀落浄土を求めて池間島に流れ着いたある僧の存在であったと角幡は書き記す。
 角幡は取材を通して、「海」という不条理に縛り付けられた人間の生き様を発見する。そして、そのことが、自分を魅了したのだと告白する。考えてみれば、角幡が自然の中の冒険に向かう動機もまた、自然という不条理に身を任せたいというある種の欲望にあるのだろう。だからこそ、彼は本村実の生き方に羨望を抱く。
 ――考えてみると、私が本村実の漁師としての足跡をこれほどたずねまわったのは、このような不条理な海という自然にしばりつけられて生きてきた土地と人々の生き様に魅了されたからであった。と同時に、彼らにある種の妬みをかんじたからでもあった。
 角幡はこの一冊で、自らの冒険譚を書くライターという位置づけから一段違う存在になったことは確かであろう。
 新潮社、2016年、1900円(税別)。

漂流

漂流

  • 作者: 角幡 唯介
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2016/08/26
  • メディア: 単行本


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