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戦後第2世代に期待する~濫読日記 [濫読日記]

戦後第2世代に期待する~濫読日記


「『戦後』はいかに語られるか」(成田龍一著) 

「戦後」はいかに語られるかmono.JPG 成田には、「戦後」を分析した著書として「『戦争体験』の戦後史」がある。刊行は2010年。しかし、直後に「戦後」を語るうえで欠かせない出来事が起きた。東日本大震災と福島原発事故、いわゆる「3.11」である。「3.11」は日本の戦後史の解釈を変える、決定的な何かを(成田の用語によれば)「またぎこして」しまった。それゆえにこの出来事は日本人にある種の「不安な予感」をもたらし、それが安倍晋三政権の実現に結び付いたといえる。そこで安倍政権は「戦後」の見直しに取り組んだ(いわゆる「戦後レジームからの脱却」)が、それは「戦後」を歴史的にきちんと位置付けたうえで「ポスト戦後」へ向かうという手順ではなく、「戦後」の無化と否定であった。そこで、戦後を文脈化し歴史化する作業が必要ではないか、というのが、成田のモチベーションであったようだ。
 そのうえで、前著と比べた場合、大きな違いは、戦争体験者を祖父母に持つ、いわゆる戦後第2世代の台頭に言及している点である。ちなみにいえば、戦争体験をめぐっては、①戦前世代②戦中世代③少国民世代④戦後第1世代⑤戦後第2世代―という世代区分がなされている。戦争体験者は1930年代まで、戦後第1、第2世代の分かれ目は1970年ごろである。つまり、このところ、1970年ごろ以降に生まれた世代が、その前の世代とは違った発想や思想でモノを言い始めたことに、成田は注目している 例えばそれは、映画では「野火」をリメークした塚本晋也であり、政治学者では「永続敗戦論」の白井聡である。あるいは「誰も戦争を教えてくれなかった」の社会学者、古市憲寿も入るだろう。「東京プリズン」の赤坂真理は、1960年代の生まれだが、いわゆる戦後思想の枠組みから自由であるという点において、このグループにいれていいかもしれない。
 あえて彼ら、彼女らの共通点を探せば、必要に迫られたかどうかは別にして、戦争を学びなおそうとする体験を持ったことである。そのうえで、自由なアプローチを重ねながらあるときは違和感、矛盾を感じ、共感もする。そこが、「悔恨共同体」の呪縛の中で戦後思想=平和思想とアプリオリに設定してきた戦前、戦中、少国民、戦後第1世代とは決定的に違っている。
 こうした思想の地平を見ながら、では「戦後(思想)」を保守すれば「平和」は保てるのか、という問いを立てなければならない。確かに、戦後思想にはぶ厚い地層が秘められている。だが、成田も指摘するように、オバマ大統領の広島訪問は「アメリカの原爆投下に対し、『謝罪』を要求すらしない日本政府とメディアの姿勢によって、日米同盟という名のもとの従属関係を明らかにしたこと」であり、「『歴史』が〈いま〉を浮かび上がらせた一瞬」でもあった。言い換えれば「戦争」「原爆」を「歴史認識」として思想的に位置づけられない〈戦後〉が明るみに出た瞬間であった。もはや「戦後」は行きつくところまで行きついた。戦後第1世代としては、成田が引く「未来の他者との対話」(大澤正幸)を、「悔恨共同体」に縛られない戦後第2世代以降の人たちが重ねてくれることを祈らねばならない。(河出書房新社、1400円=税別)

「戦後」はいかに語られるか (河出ブックス)

「戦後」はいかに語られるか (河出ブックス)

  • 作者: 成田 龍一
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2016/10/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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