SSブログ

「虚妄の戦後思想」の元凶は~濫読日記 [濫読日記]

「虚妄の戦後思想」の元凶は~濫読日記


「丸山眞男の敗北」(伊東祐吏著) 

丸山真男の敗北mono.jpg 著者の伊東祐吏は1974年生まれ。1960年代後半から70年にかけて全国の大学で闘争のあらしが吹き荒れ、丸山眞男が虚妄の戦後民主主義の代表的存在として批判された時代の後に生を受けた世代である。彼らが丸山をどう見たか。
 それはそのまま、70年代以降の若い世代が、丸山を通して「戦後」という時代をどう位置付けるかにつながる。そのあたりの思考の回路を、伊東は「はじめに」で示している。この中で、戦争体験や記憶が消滅する瀬戸際にある今、先人の足跡をたどりながら「戦後」を再点検(=再定義)することの重要性を唱える。その意味では、丸山は「戦後」をみるための「窓」であったといっていい。
 構成はほぼ時代に沿っておりオーソドックスである。福沢諭吉と明治を論じた丸山に、絶対的体系より時代によって立ち位置を自在に変えることを優先した「相対の哲学」を、戦中の「近代の超克」をめぐる思想に一種の転向をみている。この「近代の超克」をめぐる考察については少し込み入っている。まず荻生徂徠をめぐる丸山の思考体系に「『近代の超克』への共感」と「『近代的思惟の不十分さ』の指摘」をみる。そして戦時中、微妙ではあるが前者から後者への転換(=転向)をみるのである。丸山については戦後民主主義者のイメージが強いことから、近世思想史研究の成果については当時の国家主義的な風潮に抗ったものとする見方が強いが、1990年代のポストモダン派の論などを踏まえてそれらの見方に一定の批判を加える。丸山は、従前から言われたより国家総動員体制との親和性(=「近代の超克」への共感)が強かったのではないかとの評価である。この部分は、丸山の戦後思想を批判する上で、戦争への当事者意識の希薄さ(あるいは隠ぺい)という視点につながっていく。
 この後、丸山の戦争・被爆体験を紹介したのち、戦後と丸山のかかわりについて、時代を4区分して論じる。第1期は敗戦から1950年まで。いわゆる占領の時代である。第2期は50年から60年まで。これを「逆コースの時代」と呼んでいる。第3期は5560年。これを「経済成長のはじまり」ととらえる。以降は「思想史家としての格闘」と章を立てている。最終章はまとめとして「丸山眞男の敗北」である。各章をそれぞれ追うことはここでは無理だが、最後の「丸山眞男の敗北」についてふれる。
 戦争を体験する中で国民は多くの「死」を身のまわりで体験した。陸軍二等兵として応召し、広島で被爆した丸山も例外ではない。学問分野でも、思想弾圧というかたちで多くの死を見ている。丸山はそうした敗戦直後の知識人の連帯感を「悔恨共同体」と呼んだ。民主主義の実現は死者の弔いであるという焼け跡民主主義、飢餓デモクラシーが戦後社会の原点であったというのは丸山も同じであっただろう。しかし、こうした丸山や戦後民主主義思想に「それゆえの難点」があったと著者は言う。弔い合戦の成果としての「戦後民主主義」であるなら、それは変更を許さない(変更は死者への裏切りになる)とすれば、そのあるべき姿は奉るだけの対象になり、次世代が引き継ぐことができなくなる、と著者は言う。そのうえでエマニュエル・レヴィナスについての内田樹の分析をあげ、①自分の正しさを疑うこと②「死者のために」という発想をやめること(死者を死なしめること)③自分の罪深さを認めること―などをあげる。さらに「『死者に代わる』という不遜をだれが許したのか」「死者と生者を和解させるものはなにひとつないという事実を、ことさらに私たちは忘れ去っているのではないか」という詩人・石原吉郎の問いかけを紹介。これらをそのまま丸山への批判とする。こうして丸山は「死者の呪縛」の中で戦後民主主義を独占し、死者との思い出の中で戦後民主主義の多くの欠陥を見逃した、と言う。これこそが戦後民主主義の虚妄を生んだ元凶と著者は指摘する。
 では、「戦後民主主義の虚妄」とは具体的に何を指すのか。ここで著者は戦後日本を振り返り、二つのことをあげる。一つは、米国の存在を意識から除外してきたこと。これは2段階あり、まず「意識的に見ない」、その次に「忘れる」。もう一つは、民主主義的理想を追うよりもいい暮らしや豊かさを求めたこと。これは吉本隆明の「戦後民主主義=擬制」批判につながる。同時にそれは民主主義者、思想家としての丸山の敗北であり、戦後民主主義の敗北でもあると著者は言う。そしてこれこそが、「戦後日本に、どこかウソくさい言語空間に閉じ込められたような息苦しさ」の元凶なのである。 言い換えれば、戦後日本は「いい暮らし」のために理念やプライドを捨ててきた、しかし、捨ててきたことが敗北なのではなく、「捨ててきた」ことを認めないことこそ戦後日本の敗北であるという。そして、私たち(=伊東の世代)が「戦後」を手中に収めるためには、丸山眞男の「敗北」を知らなければならないとした。
 「戦後」もしくは「戦後思想」が「焼け跡=死者との約束」から出発したことは確かである。しかし特に1960年の安保闘争以降、吉本が「擬制」と批判したように戦後思想は何か嘘くさく、したがって「平和」も何か空虚で意味を持たない概念のような響きを持ってきたことも事実である。しかし、「戦後思想」も「平和論」も何らかのかたちで後世へ引き継がれなければならない。それはどのような態様になるのか。山本昭宏「教養としての戦後〈平和論〉」とこの「丸山眞男の敗北」が、それぞれに戦後を通観する中で手がかりを示している。
(「丸山眞男の敗北」は講談社、1700円=税別)

丸山眞男の敗北 (講談社選書メチエ)

丸山眞男の敗北 (講談社選書メチエ)

  • 作者: 伊東 祐吏
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/08/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0