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時代の中で、二人の女優~濫読日記 [濫読日記]

時代の中で、二人の女優~濫読日記



「李香蘭と原節子」(四方田犬彦著)

李香蘭と原節子.jpg 女優原節子が昨年9月に亡くなった。メディアでその死が報じられたのは11月になってであった。遅れたのは、40代前半で一線を引退後、鎌倉で隠遁生活を送っていたためである。デビューは1935年、14歳の時だった。翌年、ドイツのアーノルド・ファンク監督の目に留まり、「新しき土」の主役に抜擢。日独合作映画のヒロインを演じ、女優の地位を不動にする。

 年代でいえば、私は原とはひと世代違うといっていい。したがって、同時代で原の出演作の目撃者であったとはいいがたい。出演した作品のいくつかを、後から追いながら観たというほうが正確である。その中で印象に残るのは小津安二郎監督「東京物語」での、夫を戦場で失い、戦後一人東京で生きる紀子の役であった。義父(笠智衆)とのやり取りが今も記憶に残る。「わたし、そんなんじゃないんです。ずるいんです」というセリフである。

 「1937」を書いた辺見庸はここに、「時代の理不尽」に対する一女性の身もだえを見る。1937年は、日独合作「新しき土」を引っ提げ、原がシベリア鉄道経由でナチス政権下のドイツを訪れた年である。この映画のラストで、原の演じる女性は、満州に新天地を求める。つまり「新しき土」は満州を指している。

 原は戦後になると一転、「青い山脈」で民主主義の女神を演じる。そして小津映画のいくつかで、「戦後」というフタで覆われた戦中体験を闇として抱える家族のありようを演じる(あらためて小津作品の系譜でいえば、「秋刀魚の味」での、笠智衆のかつての戦友・加藤大介とのあいまいなやりとりは、そういう文脈でとらえることができるし、「東京暮色」は文字通り戦中体験の闇を直視した)。

 こうしてみると、原節子という女優は、良くも悪しくも「時代」を大河のように静かにのみこんで流れていった存在であるかのようだ。原という女優を描いたノンフィクションはいくつかあるが、「時代と原節子」を浮き彫りにした作品がいくつあるだろうか。そうした不満を抱いていた折り、たどり着いたのがこの一冊である。

 四方田は、原のアウトラインを浮き彫りにするため、山口淑子(李香蘭)との比較を試みる。ともに1920年生まれ。しかし、その後の軌跡は対照的といっていい。原が日本のヨーロッパ志向の流れの中で世に受け入れられたのに対して、山口は原に少し遅れて満映でデビューを果たした後、日本に同化する満州人・李香蘭を公私で演じ、「五族協和」という日本の満州政策の体現者となる(ここで、二人の位置を確かめるため「脱亜入欧」という言葉を思い出してみよう)。前述のように原が戦後、民主主義の体現者として転位したのに対して、山口は終戦で「対日協力者」(漢奸)として裁かれるに至り、日本人としての出自を明らかにしたとされる。そして、原は1960年代前半には引退、隠遁生活を送ったのに対して山口は政治活動に身を転じる(スクリーンでの活動期より、実は政治活動期のほうが長い)。原の「静」に対して、山口は「動」である。こうした二人の特性を、四方田は「秩序破壊的な誘惑者」(山口)、「戦前、戦中、戦後を通じて、規範的な日本人女性を演じ続けた=権力によって構造化された視線(ノーマン・ブライソン)」と規定する。そのうえで四方田は、原を政治的文脈でとらえ、山口を反政治的存在として描く、とこの書の動機を語っている。

 こうしてみると、原は常に権力の側に立っていた存在だったが、山口は常に権力に翻弄された存在であったことがわかる。山口が戦後、池部良とともに出演した「暁の脱走」(谷口千吉監督、1950年)はよくできた作品だが、これもまた、進駐軍の民間情報教育局(CIE)によって7度のシナリオ書き換えを迫られたという事実が、このことを明瞭に物語っている。



 四方田犬彦は1953年西宮生まれ。東京大大学院博士課程修了。比較文学、比較文化。コロンビア大などを経て明治学院大教授。現在は文筆業。「『七人の侍』と現代―黒澤明再考」(岩波書店)など著書多数。「李香蘭と原節子」は岩波現代文庫、1280円(税別)。初版第1刷は20111216日。



李香蘭と原節子 (岩波現代文庫)

李香蘭と原節子 (岩波現代文庫)

  • 作者: 四方田 犬彦
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2011/12/17
  • メディア: 文庫

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