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お前なら、あの時代に反抗したのか~濫読日記 [濫読日記]

お前なら、あの時代に反抗したのか~濫読日記

 

「1★9★3★7」(辺見庸著)

 

1937.jpg エッセイでもなくノンフィクションでもなく、歴史書でもなく。おそらくそのようなジャンル分けすること自体が無意味であろう。それをして何になるのだ、とだれかが言っているようである。タイトルは「イクミナ」と読む。ミナ征(イ)ク。なぜ、どうして、なんのために、そんなことは問わず、ただ征服を目指した時代があった。

 ミナ征ク、つまり1937年は、7月の盧溝橋事件で日中戦争が勃発。その年の12月には南京虐殺事件が起きた。しかし、辺見にとってこの年でなければならないわけではなかったはずだ。彼は、たとえば1937年を取り上げてみる、ということをする。そこにどんな時代が見えたか。しかし、その答えが尋常な一筋縄では出てこない。

 ヘレン・ケラーが4月に来日する。客船待合室で、彼女は財布を盗まれる。すると、日本中から善意のカネが、彼女のもとに送られた。「日本はこんな国だと思わないでください」と文章が添えられて。

 しかし、その年の暮れ、南京で日本軍は暴虐の限りを尽くす。機関銃で数千人を射殺し、日本刀で切り殺し、住居に放火し、徹底的に略奪し、女性を強姦し…。この所業は、ヘレン・ケラーの「盗難」でみせた善意と、この国では同居している。道徳と、究極の非道徳が無意識的に住み分けている。だからこそ「百人斬り」の新聞記事を、当時の日本国民はむさぼるように読んだ。

 手がかりは堀田善衛の小説「時間」である。中国人の視線で南京事件を描いた。淡々とした筆致の中に、ぎくりとする言葉が出てくる。たとえば「積屍」。屍体が積み重なった状態を指す。その「積屍」は「山をなしている」。もちろん、こんな言葉は日本にはない。しかし、中国にはある。それは、二つの国の屍(かばね)観の違いによるものかもしれない。いずれにしても、屍体は何万、何千という単位で存在するわけではなく、一つ一つの屍体が積みあがったものとして存在するのである。ここに、堀田が中国人の視線で南京事件を描くことの必然が生まれてくる。だから、時代への同調欲望を底に隠し持った石川達三のルポ風小説「生きている兵隊」は、徹底的に否定される。

 辺見は、これらのことを論理ではなく、肉体的感性に徹底的に引きつけて書こうとする。書かれたものは「過去のこと」ではなく、「過去にまつわる現在」「過去にまつわるわが肉体的記憶」なのである。たとえば「君が代」や「海ゆかば」の基調低音に呼び覚まされる「わが感性」をも摘出し、じっと見ている。そして「『いま』はむずかしい」と述懐する。

 そのうえで辺見は、本当は誰もが問わねばならないが、誰も問うことをしなかった一つの問いを発する。「おまえは、あの時代に生きて、本当に戦争に反対したのか」「おまえは、中国人を殺すことを拒否したのか」と。

 辺見は書の冒頭で「ねずみ」という詩を紹介している。往来の真ん中で死んだねずみは、次々とくる車輪にのされて、ついに平らになっていく。辺見はそこに「時間」や「歴史」や「意味」のなれの果てをみている。一枚の板になって陽に反り返ったものを、もう一度、盛り上がった何かにしようとするのが、この書のたくらみであろう。もちろんそこには、強烈な腐臭と悪臭が漂っている。

 それは、戦争責任を問うことをしてこなかった日本の戦後という時代が底流に抱える「腐臭」でもある。

 

 「1★9★3★7」は金曜日刊、2300円(税別)。初版第1刷は20151027日。辺見庸は1944年、石巻市生まれ。70年に共同通信社入社。北京特派員、ハノイ支局員、外信部次長、編集委員などを経て96年退社。78年に中国報道で新聞協会賞。91年に「自動起床装置」で芥川賞。


 

1★9★3★7(イクミナ)

1★9★3★7(イクミナ)

  • 作者: 辺見 庸
  • 出版社/メーカー: 金曜日
  • 発売日: 2015/10/22
  • メディア: 単行本

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