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骨太のニヒリズム~映画「裁かれるは善人のみ」 [映画時評]

骨太のニヒリズム~映画「裁かれるは善人のみ」

 原題は「リヴァイアサン」。トマス・ホッブスの政治哲学書である。この書は、もともとは旧約聖書に登場する海の怪物レヴィアタンに材を得ている。ホッブスが描こうとしたのは、神の存在を超えた近代の怪物、すなわち「国家」である。社会契約論によって人間は、社会秩序を維持するための権力を、神でも王でもなく国家にゆだねた。しかし、国家権力は時として理性を超え暴虐の限りを尽くす。この映画でも、人間が作り出した権力が、神を従えてどす黒い欲望をむき出しに暴虐を尽くす。
 ヴァレンツ海に面したロシアの小さな、荒涼とした町で自動車工場を営むコーリャ(アレクセイ・セレブリャコフ)は、若い後妻リリア(エレナ・リャドワ)、前妻の子ロマとともに暮らしている。そこへ、市による開発計画が持ち上がる。土地を売ることに抵抗するコーリャは、友人の弁護士ディーマ(ウラディミール・ヴドヴィチェンコフ)をモスクワから呼び寄せ、対抗策を練る。

 ディーマは強欲な市長ヴァディム(ロマン・マディアフ)の過去を暴き出し、その事実を突きつけることで開発計画をやめさせようとするが、市長は暴力的な手段で応じる。一方でディーマは魅力的なリリアとの情事にふけり始める―。

 ここまできて、この作品の一つの特徴が浮かび上がる、市長の過去とは何か、ディーマとリリアの情事とは…そうした、ストーリー上重要と思えるファクターがすべて映像の枠外に置かれている。もちろん、ここには作り手の強い意思が秘められている。肝心なことは、輪郭だけが提示される。そのことを見るものに意識させることで、逆に巨悪の存在を浮かび上がらせようとしているのだ。

 ラストにかけて、たとえばリリアは、人間の生命のはかなさを思い知らされることになるのだが、もちろん、その細部はスクリーン上で描かれはしない。しかし、それまでの映像上の伏線によって、そこには巨大なたくらみ―海から現れたレヴィアタンを思わせる―が潜んでいることを我々に伝えるのである。

 権力という怪物の前に、延々と救いのないストーリーが展開される。しかし、われらを救う神はいないのである。聖職者たちはとうの昔に権力にひれ伏している。

 荒涼とした海岸に残る、巨大なクジラの白骨が印象的だ。もちろんそれはレヴィアタンの残骸の暗喩であろう。では、レヴィアタンは死んだのか。そうではない、陸に上がったレヴィアタンは、姿を変えて生き延びたのである。「国家」という鎧をまとって。

 2014年、ロシア製作。監督はアンドレイ・ズビャギンチェフ。この骨太のニヒリズムは、あえていうなら初期の黒沢明に似ているだろうか。

裁かれるは善人.jpg

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