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沈黙の迷宮に挑んで~映画「顔のないヒトラーたち」 [映画時評]

沈黙の迷宮に挑んで~映画「顔のないヒトラーたち

 ドイツ人自身がドイツ人の戦争犯罪を裁いた。この事実を、真正面からとらえた作品である。
 舞台は1958年から1963年のフランクフルト。この時代、アウシュビッツで何があったか、ドイツ国内ではほとんど知られていなかったという。日本はこのころ、「戦争」との向き合い方について、60年安保闘争を境に、一つのターニングポイントを迎える。ドイツもまた、経済復興の裏側で、戦争犯罪とどう向き合うかが問われた時代、ということになる。

 若き検事ヨハン・ラドマン(アレクサンダー・フェーリング)は、記者トーマス・グルニカ(アンドレ・シマンスキ)から、アウシュビッツ収容所でナチスの親衛隊員だった男が教職についている事実を知らされる。そこから検事と記者の二人三脚による戦争犯罪の追及が始まる。しかし、その道は困難を極めた。兵士たちが他国の収容所で行った行為が殺人、もしくは殺人ほう助に問えるのか。彼らはただ命令に従っただけではないのか。そして、彼らはもともとごく普通の市民であり、戦争が終わった今も普通の市民として平凡な暮らしをしている…。

 収容所にいたという男シモン・キルシュ(ヨハネス・クリシュ)から、ヨハンは一枚の紙きれを手に入れる。そこには親衛隊員の名前が書かれていた。その一人一人を、ナチに関する膨大な文書の中から洗い出す。気の遠くなるような作業である。そのヨハンに、無言の圧力がかかり始める。ヒトラーは死んだが、ナチの罪を心の奥底に抱えて暮らす市民たちによる圧力である。しかし、フリッツ・バウアー検事総長(ゲルト・フォス)はヨハンを見守り、支える。

 一方で、ヨハンは、父がナチの党員であったことを知る。あの時代、だれもがそうした。それが、あの時代だった。ともに戦争犯罪を追及する記者グルニカ自身までもが収容所にいた体験を持つと知らされる。グルニカもまた、そこで行われた行為に対して傍観者であったことに罪の意識を抱える。無力感にさいなまれ、挫折するヨハン。しかし、社会正義を通すことこそ我が道と思い直し、再び立ち上がる。麻酔なしで人体実験をされ、内臓を取り出された収容者。足をもって振り回され、壁に頭を打ちすえられて死んだ5歳の子ども。これらは兵士が命令を遂行した結果なのか…。

 アルゼンチンに潜伏していた収容所の大物のうち、メンゲレは逃亡。イスラエルの諜報機関モサドによってとらえられたアイヒマンはドイツでなくイェルサレムで裁かれるが、63年から65年にかけてあったフランクフルト裁判では19人が起訴され17人が有罪判決を受ける。

 日本でいえば、BC級戦犯にあたる犯罪を日本人自身が裁いた、ということになる。そこに、日本とは違う戦争犯罪への向き合い方がある。驚かされたのは、戦後10年以上たったドイツ国内でアウシュビッツの事実が知らされていなかったことである。ハンナ・アーレントのいう「忘却の穴」に、アウシュビッツでの殺戮行為はまんまと落としこめられていたのである。

 いったん挫折したヨハンとグルニカは、アウシュビッツを訪れる。ここで二人は印象的な会話を交わす。


「何が見える?」

「アウシュビッツ」

「違う。草原と建物があるだけだ。アウシュビッツは記憶だ。記憶は裁かなければ忘れられてしまう」


 ヨハンは架空の人物で、実際に手掛けたのはバウアー検事総長自身だったといわれる。ヨハンを主人公に仕立てることで、マレーネ(フリーデリーケ・ベヒト、「ハンナ・アーレント」でアーレントを演じた)とのロマンスも語られ、洋服の仕立てを仕事にするマレーネに破れた背広をもって行き、「直してくれないか」と二人の関係の修復を依頼するしゃれた会話も盛り込まれている。

 極めてわかりやすい筋立てである。最近では、ドイツを扱った戦争モノといえば、暗号解読器エニグマとの対決を描いた「イミテーション・ゲーム」のようなゲーム感覚のものが目立つが、戦争犯罪と正面から向き合うという意味では「サラの鍵」「愛を読む人」「ハンナ・アーレント」と並ぶ秀作である。邦題「顔のないヒトラーたち」も悪くはないが、原題「Im Labyrinth des Schweigens(沈黙の迷宮)」も捨てがたい。2014年、この映画がドイツで作られたことに拍手である。


 

顔のないヒトラー達.jpg


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