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国民不在の敗戦ドラマ~映画「日本のいちばん長い日」 [映画時評]

国民不在の敗戦ドラマ~映画「日本のいちばん長い日」

 広島に続いて長崎に原爆が落とされ、ソ連が樺太(サハリン)に侵攻した1945年8月9日から、玉音放送が流れる8月15日までを描いた。同名の映画は1967年につくられ、このときは御前会議でポツダム宣言受諾が決まった14日正午から玉音放送が流れた15日正午までの文字通り「1日」だったが、新作は1週間を描いている。したがって前作のような緊迫感は今一つで、比較的冗長な印象を受けた。

 映画としては、天皇の「聖断」と、それを受け入れられない陸軍の狂信的な一部将校のクーデタ計画、そのはざまで苦悩する阿南維幾陸相、そして、なんとか戦争を終わらせようと奔走する鈴木貫太郎首相…といういくつかの縦糸を絡ませる形で進む。それはそれでいいのだが、一つ、欠けている視点がある。それは、当時の国民がこの事態をどう受け止めていたか、である。なぜそれが必要と思うか。

 前回の「日本の…」がつくられた時代は、60年安保と70年安保のはざま、米ソ冷戦のさなかであった。冷戦が終わった今、時代的には何が違っているか。それは「戦後」というものが持つ意味であろう。日本の「戦後」は冷戦下、米国が日本を反共防波堤にすることから始まった。そのため、日本国民を米国の支配下に置くための「最上の傀儡システム」として、天皇制システムの維持が模索された。いま、対米追随の「沖縄」「原発」政策が、国民意識から離反しつつも進められているのは、そうした冷戦下政策の名残である。ポスト冷戦のいま、それらは見直されるべきだが、日本の政治は「慣性の法則」から脱却できずにいる。その結果としての安倍晋三政権の奇形性もまた、その延長線上にある(「戦後レジームの脱却」とはかつての大日本帝国主義の延命であり、その生命維持装置が現在の象徴天皇制である)。

 約めて言えば、こうした戦後社会の「ねじれ」や「いびつさ」を生んだ米国製「象徴天皇制」はいまや、見直されるべきなのだ。そして、現在ある「ねじれ」「いびつさ」を浮き彫りにし、ただそうとする視点とは、国民の立ち位置から「戦後」を問い直そうとする視点であろう。しかし、この映画には、そうした観点が微塵もない。天皇の「ご聖断」によって国民は救われたとする「神話」を振りまくことの積極的意味が、戦後70年のいま、あるとは思えないのである。

 こうした敗戦時のドラマに国民的な覚めた視線が絡めば、軍部のメンツ争いの愚かさ、「聖断」の空虚さ(少なくとも、なぜ戦争を終わらせる決断がもっと早く、少なくとも1年前にできなかったか)、などはもっと盛り込めたはずだ。

 阿南陸相を演じた役所広司は、意外に軍人に見えなかった。狂信的将校・畑中少佐は、松坂桃李より、前作の黒沢年男のほうが似合いで印象に残った。総じて、将校役の俳優に肥満体が多かったのも気になった。皮肉にも、こんなところに「戦後70年」を感じてしまった。



 
 日本の一番長い日.jpg

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