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戦無派が予感する「戦争」~映画「野火」 [映画時評]

戦無派が予感する「戦争」~映画「野火」

 塚本晋也監督の「野火」を見た。大岡昇平のこの原作の映画化は1959年に市川崑監督が果たしたが、1960年生まれの戦無派・塚本監督が、半世紀以上を経て今も色あせぬこの「戦場文学」の傑作に挑んだ。

 下世話なことかもしれないが、市川作品の評価が高いだけに、どうしても二つの作品の比較をしておかなければならない。日本映画は1958年、観客動員数でピークをなす。つまり、市川作品は日本映画全盛期のころに作られた。キャストも船越英二、ミッキー・カーチス、滝沢修、山茶花究に佐野浅夫とそうそうたる顔ぶれだ。一方の塚本作品は、監督自身が独立系であったことからも分かる通り製作、撮影、脚本、主演が塚本。ほかに名の知れたキャストはリリー・フランキー、中村達也ぐらいであろうか。この時代背景と製作事情は映画の作り方にも表れている。市川作品はモノクロで隙のない映像構成。塚本作品はカラーでハンディカメラの多用が目立つ。これは、何を意味するか。

野火.jpg 

 その前に大岡作品の意味について触れたい。冒頭で「戦場文学」と書いたが、これはもちろん、「戦争文学」ではないという含意である。大岡は、1945年のフィリピン・レイテ島を舞台にしたこの作品を、徹底的に個人の意識下にある戦場を舞台に成立させている。だから国家の意思も、日本軍の命令系統も、ほとんど意味をなさない。しかし、それは主観のみが支配する世界という意味ではない。大岡はぎりぎりのところで、「誰かに見られている」というフレーズを多用する。「誰か」は「神」であるかもしれないし、そうでないかもしれない(原作の最後は「神に栄えあれ」で結ばれ、神の存在を強く示唆している)。そして殺戮する側もされる側も、つまり個人の生死は必然ではなくすべて偶然によって支配されている、という動かし難い想念が全編に貫かれている。主人公の田村一等兵(姓はあるが名はない。これは「人間の条件」の主人公・梶と同じ設定である)がフィリピン女性を射殺するシーンがあるが、その動機も特には語られない。そして戦場のおびただしい兵士の屍体についても、田村は悲哀も憐憫の情も感じず、冷静な視線でとらえる。

 登場する人物はすべて普通の日本人である。その普通の人々が戦場でじわじわと狂気の世界に陥っていく。その中で冷徹な意識分析眼を持つ田村は、違和感を覚え始める。しかし、日本兵が日本兵を襲うという異常な世界の中で、次第に狂気に侵され始める―。

 戦後20年もたたない時点での市川作品は、モノクロにすることで大岡が執拗に描いた日本兵の屍体のリアリティを消している。それは、余剰がなく緊迫した映像の構成美と見あっている。戦後間もないころの戦争体験者にとって、この作品の忠実な映像化は、あまりに生々しかったに違いない。

 しかし、塚本監督は敢然とこうした映像的フィルターを取り去る。フィリピンのジャングルの深い緑と青い空。その下でうごめく日本兵の醜悪さ。それらをカラー映像と手持ちカメラで描き出す。米軍による殺りくも、過剰なまでに残虐に描かれる。事実、この映画はヴェネチア映画祭出品の際、戦闘シーンの残虐さの部分で「トゥーマッチ(過剰)」との評価もあったようだ。

 711日、尾道での上映会では塚本監督と大林信彦監督の対談が企画された。戦争体験がない塚本監督は、戦闘シーンについて「想像力を働かせた」としたうえで、撮影、編集を終えた時点で「撮り足りない」と感じて足した部分もあると話した。その背景には、平和が当たり前でなくなった最近の政治情勢があり、この映画を未来への警鐘としたかった、とも語っている。ここにこそ、「過去の戦争」を端正に描いた市川作品と明確な違いがあるといえようか。

塚本・大林.JPG 


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