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戦争へ向かう日常の被膜をめくる~濫読日記 [濫読日記]

戦争へ向かう日常の被膜をめくる~濫読日記

「すべての戦争は自衛意識から始まる」(森達也著)

すべての戦争は自衛意識から始まる.jpg  「すべての戦争は自衛意識から始まる」はダイヤモンド社刊。税別1600円。初版第1刷は2015115日。森達也は1956年、呉市生まれ。映画監督、作家、明治大特任教授。98年にオウム真理教信者を被写体にしたドキュメンタリー映画「A」を公開。11年に「A3」で講談社ノンフィクション賞。













 森は2013年、ベルリン自由大学を訪れ、学生たちと話したときの体験を記している。テーマは戦争のメモリアルである。聞かれて森は「8月15日」「8月6日」、あるいは「8月9日」をあげる。ドイツの学生たちは、ではベルリン陥落の日をメモリアルデーとしてあげたか。そうではなかった。彼らが言及したのは「1月27日」。首をかしげる森に、学生たちが明かす。連合軍によるアウシュビッツ解放の日―。 しばらく絶句した森は「この差は大きい」との感慨を持つ。

 私たちは、戦争といえば「被害」の意識が真っ先に立つ。しかし、歴史的事実をみればそうではないのではないか。森は書の冒頭で、南京「百人斬り競争」の記事をあげている。「百人斬り〝超記録〟」と見出しの付いた記事は、スポーツ紙のようなノリで罪悪感など見られない。そして、この話題は書き方から推測してこれまで何回か書き継がれていて、読者の「需要」が背景にあることが分かる。一連の記事を読んで、読者は五輪のメダル争いを語るように、二人の将校の「快挙」を日常の話題にしたであろうことが目に浮かぶ。

 森は「A級戦犯」にまつわる誤解にも言及している。日本が戦争を始めたのは、一部の指導者の意思や工作の結果ではない。騙した人と騙された人とを明確に二分することは不可能だ。政策を遂行する側がいて、それを熱狂的に支持する大衆がいたことも確かだ。だが、森は書いていないが、だからと言って一億総ざんげという表面的な行動に走るのも問題だ。戦争という局面において、我々は加害者と同時に被害者でもある。被害の実相を記号化することにも徹底的に抵抗しなければならない。そのうえで、森が言うように、靖国神社は本当にアーリントン墓地になぞらえることができるのかを考えなければならない。

 この本には、戦争への道筋を決定づけた治安維持法が成立した1925年の新聞紙面が掲載されている。森が「呆然とした」という紙面である。こんな見出しがある。「治安維持法は伝家の宝刀に過ぎぬ」。今、特定秘密保護法を推進する側の言い方がそのまま、この時代にまかり通っている。

 書のタイトルに即して言えば、著者はこう書く。「自衛の意識は簡単に肥大する」「人は自衛を大義にしながら人を殺す」―。

 そして、エピローグでは「絶望」がつづられる。「堕ちるなら徹底して堕ちたほうがいい」「敗戦にしても原発にしても、この国は絶望が足りない」。そこで本当に悪いのは政権(政治指導者)ではなく、有権者(国民)であるとも。

 われわれの周囲で「戦争に賛成か」と聞けば「ない方がいいに決まっている」と表面的な答えが返ってくる。でも、戦争への道は切り開かれ、戦争は始まる。それはなぜか、を日常の被膜をめくり、「書きながら憂鬱になる」とぼやきつつ、考察した一冊である。

すべての戦争は自衛意識から始まる---「自分の国は血を流してでも守れ」と叫ぶ人に訊きたい

すべての戦争は自衛意識から始まる---「自分の国は血を流してでも守れ」と叫ぶ人に訊きたい

  • 作者: 森 達也
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2015/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

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