群れるな、絶望せよ~濫読日記 [濫読日記]
群れるな、絶望せよ~濫読日記
「絶望という抵抗」(辺見庸×佐高信)
「絶望という抵抗」は金曜日刊。定価1500円(税別)。初版第1刷は2014年12月11日。辺見庸は1944年石巻市生まれ。共同通信記者を経て作家。「自動起床装置」で芥川賞。佐高信は1945年酒田市生まれ。高校教師、経済誌編集長を経て評論家。著書に「安倍政権10の大罪」など。 |
読んでいて、言葉の一つ一つが突き刺さる。それは、対談する二人が異空間から矢を放っているからではない。異空間から飛んできた矢は、ただ身をよければいい。そうではなく、二人は我々と共有する空間の深く昏い場所から矢を放っている。
二人が異を唱えているものは、大きく二つある。それを、明確に論じ分けているわけではないが、ここでは便宜的に二つに区分して紹介する。
一つは戦後民主主義の問題と、その空隙を縫って忍び来るファシズムの問題である。
戦後民主主義の思考回路を語る上で、象徴的に取り上げられているのは、日本浪漫派批判が戦後、置き去りにされてきたことである。それは、1950年代に日本浪漫派批判を展開した竹内好の忘却でもあった。だからいま竹内を取り上げることは、この問題を軽視してきた戦後民主主義への批判につながる。
この問題での辺見の認識を紹介しよう。
――日本浪漫派は、プロレタリア文学が瓦解したところにおどり出てきて、天皇制の受け皿になった。このエートスのありようは現在とよく似ている。近代民主主義者や戦後民主主義の左翼がダメになって、イデオロギーと名のつくものがほとんど消えてなくなった。そこに再び日本浪漫派的な情動が形を変えて出てきて熱をおびてきている。
もう一つは、そうした戦後民主主義の空隙の上に無批判に立ち続けて来た知識人とジャーナリズムの問題である。
佐高は、新聞労連の講演会で「ジャーナリストの仕事はゆすり、たかり、強盗と同じ」と言って、座が嫌な雰囲気になったことを明かす。佐高の言はもっともなことで、紛糾する情報を提供してこそジャーナリストなのである。しかし、最近の「ジャーナリスト」は銀行員並みに品行方正であることが求められる。コンプライアンスとやらが問題にされる。何かが違っている。「反骨」などという以前の問題である。もちろん、安倍晋三と飯を食い得意になっているメディア幹部など論外であろう。その上で佐高は「人は弱いから群れるんじゃない、群れるから弱いのだ」という竹中労の言葉を引く。これに辺見は「物書きって本質的に、一人で息をつめて刃を研いでいるような人間」と答える。
知識人についても、同様の鋭い批判を浴びせる。例えば、「戦争をさせない1000人委員会」である。辺見はこういう。
――魂をえぐられないんですよ。人の魂を掴みはしない。相手は十分に不穏なのです。(略)こういう事態に対して、抵抗する側が数十年一日のように、同じように、聴かなくても分かるような手垢にまみれた表現を、いわゆる「善」の側から行っている。
辺見はこうした視点から、大江健三郎の「希望」を語る語り口に違和感を表明し、姜尚中、藤原帰一の「情況とのひっかかりのなさ」を批判し、宮崎駿の「妙なエコロジストみたいな」機関誌への寄稿を拒絶する。
確かに、いま必要なのはファシズムの不穏な足音への「深ければ深いほどいい」絶望なのである。希望を語ることではない。
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