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日本の近代が透ける映画史~濫読日記 [濫読日記]

日本の近代が透ける映画史~濫読日記

「日本映画史110年」(四方田犬彦著)

1-22-2015_001.JPG 「日本映画史110年」は集英社新書、定価780円(税別)。初版第1刷は2014817日。四方田犬彦は1953年大阪府生まれ。東京大で宗教学、同大学院で比較文学を学ぶ。映画、文学、漫画、都市論、アジア論など幅広く批評活動。1998年「映画史への招待」(岩波書店)でサントリー学芸賞。 
















 博覧強記の人、四方田犬彦による日本映画の通史である。彼はこの書を、19世紀の終わりと20世紀の終わりについて書き始める。19世紀は第1次世界大戦が始まる1914年に終わりを告げ、20世紀は2011年の福島原発事故をもって幕を下ろしたという。逆にいえば、20世紀は第1次大戦の開戦で始まり、福島原発事故で終わったということでもある。それが意味するものは。資本主義の成長が世界に「機械化」をもたらし、それが思想に裏打ちされて「近代」としての自覚につながった。しかし、機械化=近代化の時代は原発事故をもって終わる。そんな認識を表象してはいないか。
 もちろん、「映画の通史」とも呼ぶべきこの書を、こうした時代認識から書き始めたことには理由(わけ)がある。鶴見俊輔のいう限界芸術と大衆芸術の境界線上にあるという映画は、そのまま日本の近代史を俯瞰するスコープとして有効な機能を持つのではないか、という魅惑的な前提が、そこにはある。しかし同時に、こうした立脚点から日本映画を見たとき、ある種の歪みを見出すことにもなる。ジャンルとしての「日本映画」の輪郭のあいまいさ。一方で、文化的な鎖国状況の中で作られた戦時の日本映画の優秀性(この点は、J・ダワーも指摘する)。そこでは、戦中プロパガンダを目的にしているにもかかわらず、「敵国」の醜悪さを描くより様式的完成への追求に向かう日本映画の特異性ともいえる傾向がひそむ。たとえば、田坂具隆監督の「五人の斥候兵」(1938年)は、敵を描くより味方の兵士の人間性を描くことに終始する。一方で、こうした「歪み」の存在の中にこそ、批評の成立する理由もひそめられている。

 このほか、大日本帝国の支配下、台湾や朝鮮半島でどのような映画が撮られたか、GHQによる占領下の日本の映画作り、サンフランシスコ条約締結による日本独立後の日本映画の百花斉放(このとき、日本映画は質量とも黄金期を迎える)、裕次郎を得た日活の快進撃、松竹ヌーベルバーグ、股旅ものと任侠映画の、権力との微妙な距離感の指摘など、厚みを感じさせる映画論である。そして同時にそこには、日本の近代史が透けてもいる。



日本映画史110年 (集英社新書)

日本映画史110年 (集英社新書)

  • 作者: 四方田 犬彦
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2014/08/12
  • メディア: 新書

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