「戦後」の「歪み」を抱えて~濫読日記 [濫読日記]
「戦後」の「歪み」を抱えて~濫読日記
「新編 特攻体験と戦後」(島尾敏雄 吉田満)
アジア・太平洋戦争で「特攻」を体験した二人が1977年に鹿児島で語り合った内容を、その年の月刊文春が掲載した。翌年、中央公論が単行本化し、さらに2年後に文庫本化された。これを底本として新たに橋川文三、吉本隆明、鶴見俊輔の文章を加えて2014年夏に刊行されたのがこの本である。対談から2年後、吉田は病を得て急逝する。したがって、二人の対談はこの時しかない(この項、巻末の加藤典洋の解説から引用)。
一口に「特攻体験」といっても、二人にとってその意味は両極をなしている。島尾は昭和19年、海軍予備学生を志願、「震洋」特攻隊隊長として加計呂麻島で終戦を迎える。吉田は戦艦「大和」に乗り組み、乗員3000人余、生還者276人という過酷な体験をくぐる。島尾の「戦争」に死者はいなかった。吉田の「戦争」では死者があふれていた。こうした体験の差が、二人の「戦後」に鮮烈なコントラストをもたらす。島尾は内省的な「戦争」の物語を書き、吉田は一夜にして屹立する「戦艦大和ノ最期」を著した。
その二人がたった一度、対話した記録が、この本である。語られたものを一言で言えば、「時間」の重さである。戦時下、わずかな時間差がそれぞれの宿命、生死を分けたという事実。その体験を、30年余を経て(対談時=注)心の中のしこりとして抱え続けてきたという事実。吉田にとってそれは「手のつけようのないもの」であり、島尾にとっては日常の積み重ねの中で「異常な体験としてくっきりしてきた」ものである。
二人はこのことを、別の個所で別の言い方で言及する。
島尾 あれ(特攻体験=注)をくぐると歪んじゃうんですね。
吉田 歪まないとくぐれないようなところがありますね。
「歪んでしまったもの」とは、時の流れのことだと思う。
巻末に、加藤典洋の「永遠のゼロ」(百田尚樹)についての解説がある。この中で「できるだけイデオロギーを入れなかった」という百田の発言を紹介している。さらに、そう考えればこの「永遠のゼロ」は「なかなかに心を動かす、意外に強力な作品」と言及する。しかし、一方で現実の百田は、いわゆる「平和主義者」とは違った思想を持ち合わせる。そうした思想(イデオロギー)と作品の間にはいうにいえない「歪み」がある。「胡散臭さ」といっていいかもしれない。それは、島尾や吉田がいう「歪み」と同じだろうか。違っているのだろうか。
新編 - 特攻体験と戦後 - 〈対談〉 (中公文庫 し 10-5)
- 作者: 島尾 敏雄
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2014/07/23
- メディア: 文庫
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