「聖なる時間」を得るために~映画「紙の月」 [映画時評]
「聖なる時間」を得るために~映画「紙の月」
ひょっとすると、これは柳田國男ふうにいえば、ハレとケの物語ではないか。山口昌男ふうにいえば「聖と俗」の問題かもしれない。レヴィナスの逃走論も、少し入っている。
時代設定は1994年から翌年にかけて。昭和が終わり、平成が始まるころ。バブル経済が破綻し、世の中も人びとも内省の時代に入りかけたころである。デフレ気分が蔓延し、社会の高齢化が進行する。生きる目標をどこに見いだすべきか…。
そんなころ、パートの銀行員として外回りを担当する平凡な主婦・梅澤梨花(宮沢りえ)は化粧品を買いかけ、手持ちが足りないことに気づく。そして客から預かったカネをほんの少し流用する。梨花に、ある種の快感を呼び起こす。
一方で、顧客の家で出会った大学生・平林光太(池松荘亮)と深みにはまり、ホテルに通う関係が続く。
こうして一人の女性が破滅し、その先に心の闇が広がる…といってしまえば、数限りなく語られてきた平凡な犯罪ストーリイに過ぎない。しかし、角田光代の原作も映画も、そうした語り口にはなっていない。梨花は反モラルという重圧を背負っていないのである。
そのことは冒頭と、途中でバックラッシュする梨花の中学時代のエピソードによっても描かれる。ある目的を達成するため、とった手段のモラル性は問われるべきなのか…。梨花は「ノー」と答えている。こうした心理が生み出した「使いこみ」の風景は、どう見えるか。
夫が単身赴任中、光太と過ごす週末の豪華ホテルは梨花にとって「ハレ」の舞台であるかのようだ。ベテラン行員・隅より子(小林聡美)や小悪魔的な相川恵子(大島優子)らとの行内でのやり取りは、「ケ」の世界を思わせる。あるいは「聖」と「俗」。梨花は「聖なる時間」を獲得するため、ひたすら証書偽造=ケガレを繰り返す。
しかし、使いこみは結局ばれてしまう。その時、梨花がとる行動とは…。
映画では銀行内の情景、つまり平凡な主婦である梨花がどう転落の階段を駆け降りたかに軸足が置かれるが、原作では、逃亡先タイでの梨花にかなりの比重がある。その原作で、梨花の章の最後はこのようなつぶやきで終わっている。
きっと逃げられる。どこへでもいける。なんでもできる。(略)
そうして自分の声がすがるようにつぶやくのを、聞く。(略)
「私をここから連れ出してください」と。
存在が必然的に生み出す束縛からの逃走。その願望が梨花の内面に充満する。
タイトル「紙の月」は秀逸だ。「偽物」であると同時に、はかなく消える存在を連想させる。それは「聖性」=永遠につながっている。
コメント 0