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「武士」が「人間」に戻る時~映画「柘榴坂の仇討」 [映画時評]


「武士」が「人間」に戻る時~映画「柘榴坂の仇討」

 武士道の非合理性と非情さを浮き彫りにした作家として、滝口康彦がいる。生涯のほとんどを佐賀で過ごし「葉隠」などに材をとった作品を世に問うたが、直木賞候補に計6回名を連ねてついに栄誉に浴することはなかった。代表作に「異聞浪人記」がある。小林正樹監督「切腹」の原作である。元和から寛永にかけ、徳川幕藩体制が落ち着き始めたころが時代背景としてある。戦乱が収まるにつれ食いっぱぐれる浪人が出始め、各藩江戸屋敷の門前に現れては「切腹する」と言い張り、金銭をせしめる。「狂言切腹」の横行である。この「切腹」の舞台として登場するのが桜田門の井伊家である。原作では「武門の誉れ高い」家柄として紹介される。

 井伊家は彦根藩主として代々大老職に就き、譜代大名の中の譜代大名である。なぜ「彦根」は徳川幕府にとって重視されたか。映画「柘榴坂の仇討」の原作が収められた「五郎次殿御始末」の解説に、地政学的な面白い指摘がある。徳川幕府が、西国の有力者たちを封じ込めるため彦根―桑名防衛ラインを考えたというのだ。そのため、彦根には井伊を置き、桑名には、やはり譜代中の譜代である本多を置いたという。たしかに、徳川の世が確定した関ヶ原の合戦は、彦根―桑名ラインのすぐ東で行われた。火縄銃が水に弱いことから、水上部を除外して考えると、日本列島の陸峡部ともいえる部分がこの地にあたる。つまり彦根―桑名は、西からの進軍を止めるための戦略的要衝であった。

 前置きが長くなったが、映画「柘榴坂の仇討」は、江戸から明治の転換期に、なお主君の仇を討つこと=武士の忠誠=にこだわった男の物語である。井伊家の家臣であり、桜田門外の変で直弼暗殺を許したかどで汚名をこうむる。しかし、切腹は許されず、暗殺事件後に逃亡した男たちの首級を挙げることを求められ、明治の世に変わってもその一念を貫こうとする―。

 「武士の忠誠」と書いたが、ここにあるのは、打算を超えた「無私の忠誠」である。既に彦根藩はなく、家禄が復活するわけもなく、汚名がそそがれるわけもない。実際、映画の中で彦根藩士・志村金吾(中井貴一)は、ある人物にそのことを問われ「私心や打算ではない」と答える。しかし、それは時代の流れの中で、もはやどんな裏打ちもない心情ではある。浅田次郎の原作ではそのあたりを「気の毒な男」と形容するなど冷めた視線が存在するが、映画では削られている。たしかに、観客の感情移入を促すという意味では邪魔ともいえる「距離感」だが、映画的には本来それがあってこそ作品としての質が担保される、ともいえる。厳しくいえば、そのあたりにこの映画のつくり手の「志」のレベルが現れている。

 最終的には(あまり言ってしまうと差しさわりがあるが)、主人公は時代の変転に気づき、非合理性からより人間性に近い方へと生き方を変える。そのあたりの思考の段階の踏み方は見てのお楽しみだが、一つだけ言えば、「仇討」から帰ってきた金吾を迎える妻・セツ(広末涼子)の表情は見ものである。特に、雪の夜道を2人連れ立って歩く時の広末は、抑制がきいた一世一代の演技といってもいい(このシーンの評価は諸説あるようだが、結果としてこれでよかったのではないかと思う)

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