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客体としての「戦後」を論じる~濫読日記 [濫読日記]

客体としての「戦後」を論じる~濫読日記

「日本劣化論」(笠井潔・白井聡 対談)

9-16-2014_001.JPG  「日本劣化論」はちくま新書。初版第1刷は2014710日。840円(税別)。笠井潔は1948年生まれ。小説家、評論家。「テロルの現象学」など。白井聡は1977年生まれ。文化学園大助教。専門は政治学、社会思想。「未完のレーニン」など。














 プロ学同のイデオローグだった笠井と、若き政治思想研究者・白井の対談。年齢差は29歳にもなる。その二人の放つ言葉が、ある一点で焦点を結ぶ。それは、日本の戦後をいかに客体化するか、という一点である。

 白井は「永続敗戦論―戦後日本の核心」で、日本の「戦後」とは何かに迫った。笠井は、「8・15と3・11 戦後史の死角」で、ニッポン・イデオロギーという戦後精神史の伏流水を明らかにした。永続敗戦論に沿えば、日本の戦後は敗戦の否定と同時に対米従属を貫くという保守政治によって担われた。それは、保守政治の対抗勢力の側に立てば、憲法という絶対的平和主義と日米安保の均衡の上に成り立つ表層的「平和」の歴史でもあった。その二つをともに脱却する道は何か。これが、この書のテーマである。

 白井はこういう。

 ――現政権(注:安倍政権)の「世界市民の一員として行動する」という方針は、日米同盟の強化とイコールになってしまっている。つまり世界=アメリカになってしまっていて、それ以上の普遍というものがない。

 白井が言う「日米同盟の天壌無窮化」である。なぜこうなったか。笠井は、その精神構造を「アメリカは強いから勝ったが、でも日本は正しかった」という幼児的な自己肯定の欲望と位置づける。白井もまた、日本は軍事的にも道義的にも敗れたのであり、それを認めたからこそ国連(=連合国)のメンバーとして認められたのだという認識が脱落していることが、永続敗戦体制とパラレルな関係にあるのだと指摘する。

 だが、ここまでは、お互いの「持論」の披歴に過ぎない。興味深かったのは次のような指摘である。

 NHKのある番組で、2・26事件が取り上げられた。ゲストは御厨貴、加藤陽子、筒井清忠。白井によれば、3人からは決起将校に対する批判的なコメントがなかった。そこに白井は「戦後民主主義のポテンシャルの枯渇」をみる。2・26事件が成功裏に終わった後の軍事独裁よりは戦後民主主義の方がマシだったというのが従来の歴史観だが、そうではない、もう一つの「戦前」を見ようとする観点が生まれつつあるとみている。その先に「戦後は終わった」という共同主観が生まれつつあるというのが、白井の見立てである。

 では、さらにその先に何を見るか。

 日本になぜ、欧州のような社民勢力が育たなかったか。東アジア共同体は可能なのか(二人はそれに否定的な見解を示す)。主権国家の終わりは到来するのか――。もちろん、この書によって明快な答えが得られるわけではない。しかし、その先の答えが見つからない限り、対米従属の「永続敗戦」を続ける日本に新しい時代は来ない。そして、そうした時代へ向けて日本を変えるのがネトウヨ的反知性主義の現政権でもないことも明らかである。

日本劣化論 (ちくま新書)

日本劣化論 (ちくま新書)

  • 作者: 笠井 潔
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2014/07/09
  • メディア: 新書


 


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