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メッセージのないB級娯楽作品~映画「ゴジラ」 [映画時評]

メッセージのないB級娯楽作品~映画「ゴジラ」

 いったい、これはどうしたことだろう。ハリウッド版「ゴジラ」。1954年の初代ゴジラが反「核時代」という明確なメッセージを持っていたのに、2014年版ゴジラには何のメッセージ性もない。巨額の製作費をつぎ込んだだけの、ある意味ではいかにもアメリカらしい怪獣映画である。いい方を変えれば、今のアメリカのメジャーに核時代や戦争への真の批判を込めた映画を作れと言う方が無理か。

 日本版ゴジラがつくられたのは1954年。ビキニ環礁で水爆実験が行われ日本のマグロ漁船が被曝、直後に中曽根康弘・衆院議員が実験用原子炉建設費2億3500万円を予算要求した年である。それから約半年後、ゴジラはスクリーンに登場した。ビキニ水爆実験で古代生物が巨大化し、日本の首都・東京を襲うという物語である。もちろんそこには、核時代の到来による戦禍の再来というアナロジーがある。

 今回のゴジラは、もともと海底に潜む巨大怪獣であり、1950年代の核実験はこの未確認生物を抹殺するために行われた―という設定である。つまり、核時代そのものを「原罪」として背負っていない。そしてゴジラに対抗するもう一つの未確認生物としてMUTOなるカマキリを巨大化したような怪獣が登場する。こちらは、放射線をエネルギーとして取り込みながら都市を破壊する。ゴジラはMUTOと戦うという設定である。

 つまり、ゴジラは核時代を生き延び、MUTOというテロリスト的存在を倒すという現代の英雄なのである(MUTOはまず日本の原発を襲う。そこで核エネルギーを蓄え、アメリカ西海岸に現れる。都市の高層ビルを襲うシーンは9.11そのままである)。

 こうしてみると、2014版ゴジラは1954版ゴジラを換骨奪胎し、何のメッセージ性も持たないことが分かる。未確認生物MUTOに襲われ原発周辺が進入禁止区域に設定されるシーンなどは福島原発事故の程度の悪いつまみ食いだ。最終的にゴジラがMUTOを倒し、意気揚々と太平洋へと出ていくシーンはまるで原潜の出航のようであった。渡辺謙が演じる芹沢博士(1954版ゴジラでは同名の科学者が、科学と良心のはざまで苦悩した)は、ゴジラを見てうなるだけで何をするわけでもなく、最終的には「自然を完全に支配できると思った人間は傲慢であった」という陳腐なメッセージだけが残る。太平洋に没するゴジラの後ろ姿に、映画評論家川本三郎が戦艦大和の最期を見たような高度の精神性は、とてもではないが期待できない。

 ゴジラは、映画のちょうど半分あたりでようやく登場する。「ジョーズ」でもそうだったが、この手の映画では観客をじらすための「お約束」であろう。こんなことばかりに几帳面なB級エンターテインメントである。

 ゴジラ.jpg


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