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「集団的自衛権」の詐術を暴く~濫読日記 [濫読日記]

「集団的自衛権」の詐術を暴く~濫読日記

「集団的自衛権とは何か」(豊下楢彦著)

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「集団的自衛権とは何か」は岩波新書。800円(税別)。初版第1刷は20077月。豊下楢彦氏は1945年生まれ、京都大法学部卒。前関西大法学部教授。著書に「昭和天皇・マッカーサー会見」(岩波現代文庫)など。
















 安倍晋三内閣は7月1日、憲法解釈を変更し集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行った。しかし、その具体的な内容は、いまだ鮮明とはいえない。たとえば攻撃が想定されるとした「わが国と密接な関係にある他国」とは、理論的には日本が唯一軍事同盟を結ぶ米国一国を指すと考えられるが、政府はなお含みを持たせている。集団的自衛権の行使される範囲も、例えばペルシャ湾の機雷除去にまで拡大されるのか、明確ではない。なにより、一政権の内部討議で決められた基準(政府はそれを「歯止め」という)は、その後の政権の内部討議で変更されるという自己矛盾を本来的にをはらんでいる。すなわち、この決定は将来、限りなく拡大され運用されていくという懸念を完全に排除できない。

 そうした曖昧さにもかかわらず、間違いなくこの閣議決定は、戦後の安保体制を大きく方向転換させるものになる。しかし、その意味と重さを考えるための参考書は、それほど多くはない。そんな現状で貴重な一冊と言えるのが、この「集団的自衛権とは何か」だ。著者の豊下楢彦氏には「安保条約の成立」(岩波新書、1996年)がある。


 ◇つかれた「論理の隙間」

 「集団的自衛権」とは、そのまま解釈すれば「ある特定の他国への攻撃を自国への攻撃とみなしてともに戦う」、言い換えれば「自国が攻撃されていなくても、ある特定の他国が攻撃されれば、その攻撃を仕掛けた国と戦争をする」ということである。ここで想定される「他国」とは先に述べたように米国のことであり、米国は世界中に軍事基地を持つ「基地帝国主義」の国であるから、かつてある防衛官僚が自民党本部の国防三部会で説明したように、集団的自衛権の行使を認めれば、最終的には「自衛隊は地球の裏側まで行って戦うことになる」のである。これは論理的に自明のことである。

 もちろん、初めからそれを言ってしまえばとてもこの「集団的自衛権行使容認」のもくろみは社会的に通らないから、安倍政権は3原則(①急迫不正②やむを得ない③必要最小限)という歯止めにもならない歯止めを強調する。その前段として、「個別的自衛権は認められるが集団的自衛権は認められない」という1972年の政府見解を覆すため策略、もしくは詐術を用いるわけである。そこは、この書でも詳細、明確に書かれている。

 81年の鈴木善幸内閣はこの問題で答弁書を出した。そこにはこう書かれていた。

 「憲法九条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するための必要最小限にとどまるべきものと解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるもの……」(傍線はasa

 この論理だての隙間を目ざとくみつけたのが、安倍である。つまり「では、場合によっては必要最小限の(つまり、範囲を超えない)集団的自衛権の行使は認められるのか」ということである。これがまさしく今、安倍内閣が言う「必要最小限の集団的自衛権の行使は認められる」という主張につながっている。


 ◇集団的自衛権は自然権なのか

 この書に沿って、もう一つ問題点を取り上げるとすれば、そもそも集団的自衛権は「自然権」であるのか、ということだ。個別的自衛権を「自然権」として認めることには、それほど異論はないだろう(もちろん、絶対的非暴力主義の立場に立てば異論はあるが、国家単位で考える時、絶対的非暴力主義を持ち出すのは困難だろう)。

 戦後、世界は戦争の反省に立ち国際連合を発足させた。だから憲章第2条4項で武力行使の禁止をうたっており、そのうえでなお武力攻撃を受けた場合の例外的措置として安保理が決定する軍事的措置(42条)、自衛権の行使(51条)をあげている。そして自衛権の行使は、個別的と集団的があるとされる。問題は、ここでの集団的自衛権が本来的に認められていたものかどうか、である。豊下氏はその経緯を「国連憲章51条の成立」で詳しく述べている。

 その前に、安倍氏の著作「美しい国へ」(132p)には、こんなくだりがある。

 ――集団的自衛権は、個別的自衛権と同じく、世界では国家が持つ自然の権利だと理解されている(略)

 ――権利があっても行使できない――それは、財産に権利はあるが、自分の自由にはならない、というかつての〝禁治産者〟の規定に似ている。

 集団的自衛権は各国が当然持つべき権利で行使すべきものだが、それが何らかの事情で「使いたいのに使えない」のは「禁治産者と同じではないか」という筋立てである。ここには論理のトリックがある。まず、日本は集団的自衛権を「使いたい」と思っているのか。戦争の反省に立って「使うまい」と思っているのではないか。そこの洞察がない。その上で、集団的自衛権を「当然行使すべき自然権」と位置づけ、日本を禁治産者と断定する。

 「国連憲章51条の成立」に戻る。

 豊下氏はここで、1944年のダンバートン・オークス会議以降の経緯を詳述する。この会議は国連憲章の原案をまとめた会議として知られる。他国からの攻撃を受けた場合どう対処するかについて原案は①自明の権利として持つ自衛権を行使する②国連安保理の許可のもとで武力行使による解決を図る―とされた。しかし、翌年のヤルタ会談において安保理常任理事国に拒否権が付与されることになり、安保理が事実上機能しないことが予想されたため(実際、現状はそうなっている)、直後の3月、米州会議(南北アメリカが加盟)で、加盟国への攻撃は米州全体への攻撃とみなす、と決議された。そこから地域紛争解決のための武力行使と安保理決議による武力行使をどう位置付けるかという作業が、4月からのサンフランシスコ会議で始まった。

 こうした経緯を踏まえ「集団的自衛権」が国連憲章51条に盛り込まれたと指摘している。つまり、この概念は極めて政治的に編み出されたと言える。たしかに、もし国連安保理がきちんと機能する状態であれば個々の地域的な自衛権は認める必要がない。それは、これまでさんざんあった世界のブロック化を生むからである。実際、集団的自衛権の概念はソ連のアフガン侵攻やアメリカのベトナム侵攻など大国が戦争を仕掛ける際に便利に使われてきたし、米ソ冷戦下ではそれぞれが陣営を囲い込むためのツールであった。


 
 ◇米軍撤退なぜ要求しない?

 もう一度「美しい国へ」に戻る。このような個所がある。

 ――日米同盟における双務性を高めてこそ、基地問題を含めて、私たちの発言力は格段に増すのである。

 果たしてそうだろうか。「集団的自衛権とは何か」は1954年の日本民主党「政策大綱」に触れ、当時の保守勢力の要求は、日米安保押し付け論に立ち、自主防衛、駐留軍撤退、自主憲法制定にあったと指摘する。いま安倍首相が言う「安保の双務性」からは、米軍撤退要求が完全に抜け落ちている。それどころか、普天間基地の辺野古移設を着々と進めている。石破茂幹事長が「アメリカの若者が血を流しているのに日本の若者は血を流さなくてもいいのか」(5月18日、NHK)などと発言しているが、それを言えば戦後、米軍駐留によって理不尽な忍従を強いられてきた沖縄県民の思いはどうなるのか。米国に、沖縄の米軍基地撤去を申し入れてこそ、安倍政権にも「一分の理」があるというものだろう。


集団的自衛権とは何か (岩波新書)

集団的自衛権とは何か (岩波新書)

  • 作者: 豊下 楢彦
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/07/20
  • メディア: 新書

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