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軽さの中に深さ~映画「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」 [映画時評]

軽さの中に深さ~映画「インサイド・

ルーウィン・デイヴィス」


 売れない作家、売れない漫画家、売れない歌手、売れないナントカ…。しかし「売れる」とか「売れない」とか、一体なんだろう。売れればいいのか。売れるためには、何かを売らなければいけないのか。

 映画「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」は、1960年代初めのニューヨークを舞台に、売れないフォークシンガーの1週間を描いた。監督は「トゥルー・グリッド」のコーエン兄弟。日本では、1960年代後半に新宿フォーク集会というのがあった。教祖はボブ・ディランであった。この時代を回想した川本三郎は、著書名にボブ・ディランの歌のタイトル「マイ・バック・ページ」を借用した。映画に登場するルーウィン・デーヴィスの人物像は、ボブ・ディランのひと世代前にあたるデイヴ・ヴァン・ロンクの回想録を下敷きに作られている。

 川本は、前掲の著作の中で「(60年代という)時代は少しもやさしくなかった」「〝あの時代〟は、象徴的にいえばいつも雨が降っていた」と書き、「やさしさ」が現実ではなく理念の中にしかなかった、というパラドキシカルな時代状況を見ている。

 この指摘は「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」にも当てはまる気がする。この映画を見て、永島慎二の「漫画家残酷物語」を思い出していた。一連の漫画では、売れない漫画家たちの優しき青春の日々と酷薄な現実が描かれていた。「インサイド―」もまた、「そこそこの才能がありながら売れないフォークシンガー」の現実を、深刻にではなくある種の軽さの中で描く。そのための欠かせぬ存在が、全編通じて登場する一匹の猫(後半で判明するが、とてもいい名がついている)であったともいえる。

 ルーウィン・デイヴィス(オスカー・アイザック)は、ソロ歌手として独立しアルバム「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」をつくるが全く売れない。生活費もなく、友人の家を泊まり歩く生活が続く。心機一転、シカゴに向かい、オーディションらしきものを受けるが「カネの匂いがしない」と突き放される。結局、ニューヨークに舞い戻り、出口のない状況で歌い続ける…。

 この局面で、「生活のため」に転向した人間は数限りなくいるし、それはそこまでである。デイヴィスも、いったんはそのことを考える。しかし、どれだけの人間が自分の才能を信じ、矜持を保ち続けられるか。そこまで思いをいたすと、漂う「軽さ」の中にとても深い内容を持ち合わせていることが分かる。それを裏付けているのはオスカー・アイザックの渋くて味のある歌声である。

 インサイド・ルーウィン・デイヴィス.jpg

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