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すべり台社会とは~映画「東京難民」 [映画時評]

すべり台社会とは~映画「東京難民」


 今の社会を「すべり台社会」と言ったのは湯浅誠だった。一度滑りだしたら止まらない。とことん落ち切る。途中に引っ掛かるものがない。いわゆる「セーフティネット」がない社会。

 しかし、若者にそんな社会への危機感がみなぎっているかといえばそうも見えない。そこで、ある平凡な若者が、ちょっとした歯車の狂いでどうなってしまうかを描いてみせたのが、この映画である。

 突然、父親が失跡する。しがない私大に通う時枝修(中村蒼)は、授業料未納で除籍される。その前に、本人通知などの手続きはないのか、といえば、そこが現代なのである。マンションも家賃(映画では「利用料」という設定)未納で否応なく追い出される。やむなく即日払いのアルバイトを探し、ネットカフェで寝泊まりする。ネット情報で治験のバイトを探し出し、一定の「大金」を手にした修は、街頭で会った女性の手引きでホストクラブに出入りする。大金をまきあげられ、ホスト見習いに…。しかし、そこもなにやかやでおさまりがつかず、最終的には河原のホームレスの「住居」に居候する。

 ホストの修に貢ぐ看護婦・北条茜に大塚千弘。清楚だがどこかに弱みを抱え、堕ちていく危うさをよく出している。この映画の最大の収穫は彼女だろう。ホストクラブを仕切る半ヤクザ児玉篤志に金子ノブアキ。彼も、凶暴さを内に秘めた役柄で存在感を見せている。

 映画としては、今日言われている「格差社会」「すべり台社会」「新自由主義的社会」が具体的にどんなものかシミュレーションしてみました、という位置づけになろう。したがって、ややキワモノ的な色彩を帯びるのはやむを得ないか。

 ホームレスの「住居」から旅立つ修の見上げる空が、なにやら青天井に見えるのが不思議ではある。修とともに底辺に堕ちた茜も、必ずしも陰湿な暗さにまみれていない。すべてを失ったがゆえに解放感にあふれた終戦直後の感覚に似ているのだろうか。

 東京難民.jpg

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