旅におぼれて~現代史の現場を歩く⑥~ベルリン㊦「民族」の記憶 [旅におぼれて]
旅におぼれて~現代史の現場を歩く⑥~
ベルリン㊦「民族」の記憶
アウシュビッツで見た一枚のプレート。そこにはこう書いてあった。
“We Must Free The German Nation of Poles,Russians,Jews and Gypsiez”
書いたのはOTTO THIERACK。ナチスドイツで法相を務めた。「我々はドイツを自由にしなければならない」。その言葉の次には屈折した民族意識が続く。
ナチスは、ゆがんだ民族意識の高揚の中で、1936年のベルリンオリンピックを開催する。ベルリンでのオリンピックは、以前にも計画されていた。中止になったのは開催の2年前、1914年に第1次大戦が勃発したためである。その時点で8万人収容のスタジアムが造られていた。しかし、ヒットラーはそれを壊し、10万人収容のスタジアムを新たに建造した。それらは、第1次大戦後の莫大な賠償金の重圧とインフレ経済の中で進められた。
こうして、第1次大戦の敗戦国ドイツがオリンピック出場を許されてわずか8年、今も、ある意味では史上最高の大会といわれるベルリンオリンピックが開催される。ゲルマンの誇りと威信をかけて。
スタジアムはベルリンの西、グリューネヴァルトの杜の中にある。宿がたまたま市街地の北東にあったため、Uバーンを乗り継いで延々とベルリンを斜めに横断した。そして降りた「Olympiastadion」は小さな駅だった。周りには何もなく、杜の中に一本の道が延びていた。しばらく歩くと、駐車場を兼ねた広場に出た。そこから、2本のポールの間に五輪マークがかけられたゲートと、自然石で造られた円形のスタジアムまですぐだった。ゲートのそばにエントランスがあった。聞けば午前10時オープンだという。あと15分ほど。雪まじりの風が吹き付け、結構つらかったが待つしかなかった。
スタジアムは、ドイツらしい端正な幾何学模様でデザインされていた。正面に塔が見えた。
――競技場のメーンポールに鉤十字のドイツ国家が上がる。ナチ風の挙手の礼をするヒットラー。少年の好きなドイツ国家の旋律が鳴りひびき、彼は胸のうちで唱和する。
1940年に日本で公開された五輪の記録映画「民族の祭典」を見たある作家の、記憶をたどった文章である(沢木耕太郎「オリンピア ナチスの森で」からの孫引き)。
ベルリンオリンピックは、後の大会に二つのことを引き継がせたと言われる。一つはアテネからの聖火レース[注]。もう一つは、表彰台での国旗掲揚と国歌の演奏。前者はゲルマンの民族的正統性の主張であろう。後者は言うまでもなく、国威発揚である。二つを結ぶものは、忍従の中にある民族の解放を願う気持ちであった。オリンピックから3年後、ドイツはポーランドへ電撃侵攻する。
[注]聖火レースは、後の侵攻に備えた極秘調査の側面を持ったという説もあるが、沢木の前掲書は否定的な見解を示している。
完璧ともいえるスタジアムのデザイン |
今も五輪のマークが掲げられている |
駅の周りには何もない |
アウシュビッツにあった一枚のプレート |
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