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退路を断たれた「人斬り」~映画「許されざる者」 [映画時評]

退路を断たれた「人斬り」~映画「許されざる者」


 クリント・イーストウッド監督・主演の「許されざる者」(1992年)を李相日監督、渡辺謙主演でリメークした。しかし、「リメークした」というには若干のためらいが残る。イーストウッド版と、この渡辺謙版では、かなりテイストが違うからだ。

 かつて西部のガンマンとして悪名をとどろかせたビル・マニー(クリント・イーストウッド)は、幕末の一時期、人斬りとして名をはせた十兵衛(渡辺謙)に置き換えられている。官軍の追手を逃れ、北海道の最果ての地で細々と農民として暮らす十兵衛のもとへ、かつての戦友・馬場金吾(柄本明)が現れる。サムライ崩れの男二人に娼婦(忽那汐里)が斬られ、警察署長の大石一蔵(佐藤浩市)は事実上の無罪放免にしたのだという。怒った娼婦たちは男二人に賞金を懸けた。その話に乗らないかと金吾は誘う。これに、若い沢田五郎(柳楽優弥)が絡む。

 このあたりのプロットはほぼイーストウッド版である。ストーリーの鍵は、実はイーストウッド版で言えば保安官役のジーン・ハックマン、日本版で言えば警察署長の佐藤浩市にある。これが単純な悪役だと勧善懲悪の物語に流れてしまい、時代遅れのガンマンの矜持と凄味、というイーストウッド版のテイストが薄れる。

 で、結論から言うと、佐藤はここで「悪」のほうに傾きすぎている。従って、終盤で殴り込みをかける渡辺・十兵衛はほとんど「昭和残侠伝」の花田秀次郎(高倉健)のようで、勧善懲悪の世界に収斂してしまっている。それに、日本版にするにあたって避けられないことだが、武器としての銃の多くが刀に置きかえられていることも影響している。銃と剣では、闘う際の距離感が違う。言い換えれば「殺す」という行為の息苦しさが違ってくる。これらがあいまって、イーストウッド版にある「時代遅れのガンマンが時折見せる凄味」という味わいとはかなり違ったものになっている。

 もちろん、違って悪いわけではなく、これは渡辺謙の「許されざる者」と理解すればいいのだろう。ただ、ここでの分岐は最終的に大きな違いとなって表れている。イーストウッド版では主役は「時代遅れのガンマン」であるから、人生のシフトを変えることでなお生き残る道があることが暗示されている。「西海岸で商売で成功したらしい」というエピローグが、それを物語っている。しかし、血なまぐさく明治の世に甦ってしまった幕末の「人斬り」には、もはやそうした道は残されていない。これは、なぜか。なぜそうなるのか。日本的な倫理観のなせる技だろうか。観終わってしばらく考えた。

 許されざる者.jpg


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