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「血」がもたらす閉塞感と破滅願望~映画「共喰い」 [映画時評]

「血」がもたらす閉塞感と破滅願望~映画「共喰い」


 芥川賞をとった田中慎弥の小説を青山真治監督が映像化した。下関と思われる地方の、さらに狭い地域の中で息をひそめるように暮らす高校生・遠馬(菅田将暉)のひと夏の体験を描く。中上健次を想わせる濃密な文体と、そこから立ち上るねっとりとした空気をうまく映像に定着させている。

 青山監督には「東京公園」という秀作がある。一見すると、二つの作品は東京と地方という構図の中で対極にあるように見える。共通点を見いだすとすれば、それは、主人公の若者と、彼が暮らす(所属する)社会、または共同体との微妙な位置関係である。「東京公園」の光司は、カメラマンを目指して公園で被写体を探している。彼は「視るもの」になることで、共同体から半歩だけはみ出している。しかし、彼の立つ位置は、ストーリーの展開とともに徐々に変わってくる。「視る」という行為から踏み出した関係の構築である。一方の「共喰い」では、遠馬は共同体と付かず離れずの生活をしているが、あることで、継承された父・円(光石研)の「血」=逃れようとして逃れられぬ関係=を強烈に意識する。彼は、この関係の破壊を願望する。

 こうして、二つの作品では主人公と共同体のあいだに逆ベクトルの磁場が働く。

 「東京公園」のアッパーミドルな雰囲気は「共喰い」にはない。限定された地域の中での「血」との葛藤は、むしろ中上健次を想わせる。最近で言えば若松孝二監督の「千年の愉楽」である。和歌山の路地の一角で凝縮された血を持つ若者と「外界」との格闘=破滅がテーマだったが、「共喰い」の主人公である遠馬は、外界へ出ていく、つまり、ここにある自分より別の自分をめざす、などということはない。ただ地方の一角で暮らそうとする。それが閉塞感につながり、いったんは破滅への道を歩み始めるが、それは寸前で回避される。

 映画は、原作をほぼそのまま映像にしているが、最後の部分だけが違っている。遠馬の母・仁子(田中裕子)、恋人・千種(木下美咲)、父親の愛人・琴子(篠原友希子)の3人の女性が登場する中で、「事件」を起こした後の母親のある「変化」がカットされ、後の2人は、その後の人生が垣間見えるようシークエンスが追加されている。ここに現れた監督の「意思」は評価が分かれるかもしれない。個人的には、原作にはない「救い」のようなものを監督は求めたのであろうと推測する。深くたどれば、文字で世界を構築しようとするものと、映像で世界を構築しようとするものの違いがあるのかもしれない。

 原作と映画で一貫して描かれた地方の閉塞感と粘りつくような優しさの視線(といって適切でなければ一種の温かみある視線)は、佐藤泰志の短編集「海炭市叙景」に似ている。

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共喰い (集英社文庫)

共喰い (集英社文庫)

  • 作者: 田中 慎弥
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2013/01/18
  • メディア: 文庫



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