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「藤圭子」という歌手がいた [社会時評]

「藤圭子」という歌手がいた


 歌手の藤圭子さんが亡くなった。1969年にすい星のように現れ、ファーストアルバム「新宿の女」からセカンドアルバム「女のブルース」までオリコン42週連続1位を記録した。10年ほどで引退、渡米して結婚。その後、メディアに登場した時は「宇多田ヒカルの母」としてだった。

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 彼女の死亡記事に添えられた作家五木寛之のコメントから。「デビューアルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。間違いなく『怨歌』だと感じた。(略)当時の人びとの心に宿ったルサンチマン(負の心情)から発した歌だ」(8月23日付朝日新聞)

 社会面の4段見出し、サイド記事まで付けた産経を除くと、新聞各紙は彼女の死を、そっけないほど抑制して伝えた。半面、テレビのワイドショーや一部週刊誌は、いつもながらのセンセーショナリズムで扱った。特に週刊新潮は噂話を書き連ねて、毎度の手法だった。比較的しっかりした記事を載せたのは、週刊朝日とサンデー毎日。「朝日」は4㌻で、裏付け取材の確かさを感じさせた。「毎日」はわずか1㌻だが=この分量も意図的に抑えた結果であろう=ほろりとさせる個所があった。北海道で、小5から中3まで同じ学校に通ったという毎日新聞OBのコメントである。

 「頭が良く、明るくハキハキしていた。家が貧しかったのは事実だが、それをおくびにも出さず、周囲の信頼も厚かった」

 考えてみれば当たり前だが、彼女にもこんなころがあったのだ。しかし、ドスがきいて艶のある非凡な低音と少女らしからぬ表現力のために、地方回りの浪曲師だった父と目の不自由な母の存在が重ねられ、極貧・薄幸・暗さのステロタイプ化されたイメージを背負わされる。今から思えば虚像の部分が多く、それが彼女自身を苦しめたであろうことは推測がつくが、では彼女の歌に憑依した「人びとのルサンチマン」もまた、虚像であったのだろうか。

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 はやりうたは、日本社会の近代化と歩を同じくしている。典型例は三橋美智也とフランク永井だ。二人は1955年にデビュー。三橋は「おんな船頭歌」(55年)や「リンゴ村から」(56年)、フランクは「有楽町で逢いましょう」(57年)をヒットさせる。高度経済成長期の直前、若年労働力が「金の卵」として続々と都会に流入する。三橋は消えゆく村落共同体への郷愁を、フランクは都市への誘(いざな)いをうたった。地方に対する都市の優位が不動になり、三橋の哀感もフランクの都市のCMソングも不要となって捨てられていく。

 では、藤圭子が脚光を浴びた時代はどんな時代だったか。ほぼ10年の歌手活動の中で「人びとのルサンチマンから発した歌」をうたった期間は長くはなく、せいぜい2、3年のことだ。筆者の記憶に間違いがなければ、絶頂期は7010月の渋谷公会堂リサイタルだった。「藤圭子の時代」があったとすれば、それは69年の東大安田講堂事件から72年の浅間山荘事件の期間にほぼ合致する。このころ、全国の大学に波及した全共闘運動に関連して社会学者の小熊英二は、こんな分析をする。

 「工業化社会のライフスタイルなどへの拒否感などが原因になって運動が起きた」「急激に訪れた豊かさへの違和感や後ろめたさがあった」

(いずれも講談社「社会を変えるには」=2012年=から)

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 経済成長が進み、大量消費が美徳とされ始めた時代。しかし、富と貧困の偏在は残り、公害などの社会問題も深刻化する。「戦後民主主義の欺瞞」という言葉も聞かれた。思想的にも経済的にも社会的なバックボーンが不安定だった。これに、朝鮮半島からの引き揚げ体験を持つ五木や「火垂るの墓」で戦争体験を書いた野坂昭如らの発言が「豊かさへの後ろめたさ」を一層かきたてた。そんな大衆の心にひそむ奈落のようなものが、藤圭子のしわがれた低音と共鳴したのであろう。

 しかしやがて、思想潮流もエンターテインメントも、時代の主流はポストモダンに向かう。藤がステージを去ったのはそうしたころだった。

 そんな近代のほの暗い奈落は、過ぎ去った昔のことだろうか。福島原発事故が新たな棄民政策を生み、改憲論議が古い時代の再来を予感させる。「時代はメリーゴーラウンドのよう」などということにはならないでほしい。


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