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「時代」へのこだわり~濫読日記 [濫読日記]

「時代」へのこだわり~濫読日記


「昭和三十年代 演習」(関川夏央著)

 昭和30年代_001.JPG「昭和三十年代 演習」は岩波書店刊。1500円(税別)。初版第1刷は2013年5月28日。関川夏央は1949年新潟生まれ。「海峡を超えたホームラン―祖国という名の異文化」(1984年)で講談社ノンフィクション賞。「昭和が明るかった頃」で講談社エッセイ賞。 












 著者の関川夏央は、私と同じ年の生まれである。関川には、「昭和が明るかった頃」(文藝春秋、2002年)という魅惑的な一冊がある。「吉永小百合」という入り口を通して、石原裕次郎ら日活の「スター」(「スタア」と書くべきかもしれない)群像を描いた。しかし、彼は「あとがき」で「これは映画の本ではない。映画ファンのための追懐の本ではない」と書く(実は私は、何よりもまず「当時の映画の『追懐』の一冊として読んでしまっていたのだが)。

 ではなぜ、関川はこの一冊を書いたか。

 「あとがき」で、関川は続けてこう書いている。「高度経済成長前半期の歴史とその不思議な時代精神を記述するために、最も時代に敏感であった映画、とくに…当時の思潮を…強力にリードするかのようであった日活映画を、あえて私は材料にとったのである」

 昭和24年生まれの関川や私の世代にとって、昭和30年代とは10歳前後のころのことである。体験を体験として受け止め、一定の価値観が生まれつつあるころと言っていい。それは「戦後日本」にとっても同じような年かっこうであったのではないか。映画「キューポラのある街」で、どうみても貧困家庭の育ちには見えない吉永小百合が、貧しさに負けずたくましく生きていく、という設定の不自然さ。石原裕次郎や赤城圭一郎が活躍する無国籍映画が大衆に受ける不思議さ。

 しかし、これらは、アナーキーな価値の混乱であり、それゆえに、新時代の到来と新しい価値観の形成を予感させるものだったのかもしれない。そこに「個人的な体験と記憶」(関川の言葉遣いによれば「過ぎてしまった『青春』の無惨」)が重なり、この一冊が放つ香りは、かなり芳しい。

 さて「昭和三十年代演習」である。ここで関川は「昭和三十年代的『物語』と『歴史』」と題して、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を入り口とする。知られているように、この映画では日に日に伸びていく建設中の東京タワーが時代的表象となっている。つまり、この映画はもともと「時代」と不可分の関係の中でつくられている。しかし、では時代を正確に映し出しているかといえば、そうでもない。団塊の世代が少年少女であった時代にもかかわらず、路地に子どもがいないこと。商店街に、当時あったはずの猥雑なにおいや情景が全く感じられないこと。しかし、この映画を見てそのことに対する言及はない。観たものはみな、そうした「小さなウソ」を許容しているのである。

 つまり、この映画は、あくまでも「追憶」のために記憶の周縁をそぎ落とし、表象化した「物語」であることを、関川は示している。この視線を保ちながら彼は、松本清張や三島由紀夫、そして吉永小百合らを通して「時代」の手触りを探っていく。「物語」を排除した地点から見えてくるものは、「だれも時代を超えて生きることはできない」ということであろう。

 ――彼女が熱演すればするほど物語は冷え込むという現象が顕著になり…持ち味であった明るさは、おのずと空転しがちになります。やはり「民主主義」「明るい男女交際」「言語に対する無前提的な信頼」という主題は、昭和三十年代だけに有効だったようです。

 「吉永小百合の出る映画は、なぜつまらないか」(「昭和が明るかった頃」)の問いに対する答えがここにある。そしてそれは、すぐれた吉永小百合論であり、昭和論でもある。

昭和三十年代 演習

昭和三十年代 演習

  • 作者: 関川 夏央
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2013/05/29
  • メディア: 単行本



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