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人間存在の逆説的な隘路~映画「さよなら渓谷」 [映画時評]

人間存在の逆説的な隘路~映画「さよなら渓谷」

 

 原作の解説で、映画監督の柳町光男が、吉田修一は「相当な映画好き」だと紹介している。そして、吉田の作品の中でも「さよなら渓谷」は、「一番映画を感じた小説」だという。

 「悪人」もそうだが、吉田の小説はシークエンスを重ねることで成り立つ小説だ。余計なト書きがない。そうした手法そのものが、吉田の小説だといっていい。柳町の言うとおり、この「さよなら渓谷」もまた、シークエンスが重ねられてストーリーが進行する。このことから、映画化は一見簡単に思える。

 しかし、吉田が小説の中で展開するシーンの裏側には、いつも人間の根源にひそむ黒々とした闇がひそむ。その闇が、人間の存在の逆説や隘路を暗示する。李相日監督の「悪人」もそうだった。映画化するには、ただシーンを映像にすれば映画になるわけではなく、シーンの背後をどう組み立てていくかが問われてくる。

 秋田の幼児殺しと、ある大学の運動部で実際にあった集団強姦事件とが連想されるストーリー展開。緑深い「渓谷」のそばに住むある夫婦(真木よう子、大西信満)が、隣家の事件に巻き込まれる。事件を追う週刊誌記者(大森南朋)は、取材の中で二人は、ある事件の被害者と加害者の関係だったことを知る―。

 事件の後、ともにその呪縛から逃れられない二人は、死の道行きともいえる奇妙で絶望的な旅に出る。しかし、二人は「死よりももっと不幸な」生き方を選ぶ。そして、不幸になるために共棲を始める。そこに至るまでに二人は、人間の闇にひそむ逆説的な隘路をいかにして通過するか。ここが、心理ドラマとしてのヤマ場である。

 結末をどう読むか。そこで問われているのは、あなたの「読解力」であろう。監督は、大森南朋の兄、大森立嗣。

 さよなら渓谷.jpg

 


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