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良質な保守がいなくなってしまった [社会時評]

良質な保守がいなくなってしまった

「いま日本はタカ派ばかり」(佐高信著)をめぐって
 

 今の政治家を見ていると、保守の硬骨漢、良質な保守というのがいなくなったな、という印象が強い。どうしてこうなったのか。

 これを、政治の仕組みあるいは選挙制度に由来するというのは比較的簡単なように思う。いわゆる中選挙区の時代は、一つの党内で「同士討ち」があった。そうすると、党内には選挙区事情を反映した派閥ができる。これは一見すると「閥」すなわちグループだが、内実は選挙資金からポストの面倒まで見るわけだから、事実上の「党(党内党)」である。つまり、中選挙区下の自民党には複数の党が存在した。自民党が担う政権は事実上の連立政権だったわけである。

 こうした政治状況下では、極右ももちろん存在するが、中道もしくは革新政党(この言い方もいまや「死語」であるが)に近いグループも存在しえた。三木武夫などはそうした存在なのかもしれない。宏池会なども、「公家集団」などと揶揄されてはきたが「コモンセンス」をもった保守の集団だったと見ていいのかもしれない。だが、この流れをひく加藤紘一も先ごろ、政界引退を表明した。

 こうした、保守の中での「政論」の色分けが、小選挙区への移行で随分と変わってきたのも事実であろう。選挙区で一人しか当選しない制度は、必然的に党中央の絶対権力化を生む(裏返して言えば「派閥解消」でもあるが)。最終的に選挙区候補を決める(つまり政治家の生殺与奪の権利を握る)のは党のトップであるわけで、それが政治の一元化、平面化という今日的な状況を生みだしている。

 こうした平面的で閉ざされた政治空間では、つまるところ常識よりも威勢のいいことを言った人間が目立ち、幅を利かす。このことに関しては古今東西、ネタに困らないほどの多くの史実がある。あるいはドストエフスキーの「悪霊」でも読んでみるか、連合赤軍事件のノンフィクションでも読み返してみればいいのである。

 程度の差こそあれ、いまの政治状況はこれに準ずるものであろう。もちろん、これは眺めていればいいわけではなく、なんとかしなければならない。私自身は、結局は良質の保守がいる政権こそ、日本のためだと思っている口なのだ(民主党は「良質の保守」の住処を用意しているかと思ったら、そうでもなかった。むしろ「劣等保守」の住処だった感が強い)。自公連立における公明党の位置は今日の「目立ちたがり屋」が横行する政権のおもし役、といったところだろうが、何せ宗教政党である点が引っかかる。

 どこかの新聞で、加藤紘一が「公明との連立を崩すな」と発言していたのも、こうした政治の流れの中では興味深い。

 タカ派ばかり_001.JPG
毎日新聞社、201331日刊。1500円(税別)


 さて「いま日本はタカ派ばかり」である。ここまで書いてくれば、この書の持つ意味は明らかになるだろう。ここでは石原慎太郎、猪瀬直樹、安倍晋三、橋下徹、ビートたけしが「有害なタカ」と認定されているほか、おなじみの「筆刀両断」では吉本隆明、米倉弘昌、渡辺恒雄らが俎上にのぼっている。

 が、ここでは孫崎享のことだけに絞ってみよう。「戦後史の正体」の筆者である。あまりまじめに整理しなかったが、私の読後感はこうであった。

 戦後処理の部分は大変に参考になる。しかし、60年安保後の「対米追随」一辺倒の歴史観は、ストーリー先行の感がある―。

 岸は米国によって引きずりおろされたのか。佐藤は、対米自主派なのか。少し、無理がありはしないか。

 ここで佐高は切れ味鋭い刀を一本取り出す。憲法に対する態度である。押し付けかどうかは別として、現行憲法の制定過程は、米国の影響が強いのは確かだ。しかし近年、米国は、必ずしもこの憲法を全面支持しているとは考えにくい場面が多々ある。むしろ変えたがっているようだ。すると、現行憲法を支持する派と支持しない派は、対米自主派か追随派かという色分けにおいては、逆転する。改憲派であった岸も佐藤も、実は対米追随派ではないか。護憲派だった三木は、追随ではなく自主派ではないのか。

 この論法は、憲法の視点を持たない「外務官僚」孫崎の限界をもついて、痛快でさえある。そして、「戦後史」を書きながら、なぜか「政治の今」(あるいは「今の政治をどう変えればいいのか」)にたどり着けない孫崎の思考に対する疑問の一端を提示しているようにも思える。


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