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なぜいま「超右翼政権」なのか [社会時評]

なぜいま「超右翼政権」なのか


 自民党は9月26日、総裁選で安倍晋三元首相を新総裁に選出した。首相経験者が総裁に選ばれたのは初めてだという。安倍氏は政権投げ出しの「過去」を持つうえに、保守政治家としては強硬派の部類に入る。その安倍氏が「近いうち」の総選挙をへて政権を握るのはほぼ確実な情勢だ。そうなれば、再び超右翼政権が誕生するだろう。今の日本の立ち位置を見た場合、これは賢明な選択といえるのだろうか。よく考えてみなければならない。


 針路を変えるべき時だろう


 日本はいま海図上どんな位置にいるか。座標軸の大きなものとしては①原発事故をどう踏まえて核問題をどう考えるか②沖縄問題をどうとらえるか―もちろん、これは日米安保をどうするかにつながる③超高齢化社会―社会保障制度をどうするか④新自由主義をどう考えるか―中間層の復活…などなどがあげられる。おもに①と②を考えてみる。

 とりあえずここにあげた4つの問題は、実はもともと自民党政権の置き土産である。政権交代によって民主党が解決すべきであったが、すべて先送りにされてしまった。それがブーメランのように自民党に回ってきた格好だ。そのとき、受け手が新しい自民党であったなら少し話は違うが、そうではない。

 さて「原発」である。この問題の根幹は「100%の安全などはない」ということだった。そうであれば、これは人類の手には負えないエネルギーと言うほかない。そのうえで、核廃棄物の最終処分場が地球上に存在しないという問題がある。さらには「原子力の平和利用」という概念が極めて曖昧で、軍事利用と通底していることが明白になりつつある。これらの事実を踏まえてどんな選択をするか。「原発ゼロ」を選択したドイツでは倫理委員会がつくられ、倫理学者や宗教家がメンバーに入った。「原発再稼働は専門家に任せる」という日本でドイツのような対応は考えられるだろうか。

 沖縄の基地問題。究極的には日本と米国の関係をどう考えるか(変えるか)だと思われる。これもドイツの話だが、駐留米軍の規模を大幅に減らしつつある。日本はなぜ、ドイツのように米国との「距離感」が保てないのか。例えば安倍氏は著書「美しい国へ」で、戦争が起きれば、現行憲法下では米軍が交戦する中で自衛隊が撤退するケースもある、と書くが、果たしてそうなのか。そもそも米軍は「日本を守る」ことを第一義的に考えているのだろうか。その点、実は米の考え方はもっとクールだろうと思う。そのうえで、冷戦後の米国が軍事的な覇権を世界で唱える意味がどの辺にあるのだろうか。イラクでもアフガンでも、米国は「勝利」しているとはとても見えない。米国の覇権は世界の国が望んでいるというより、米国の国内事情によるものではないか。

 これらの座標軸を考えてみるとき、安倍氏が有効な回答を持ち合わせているとはとても思えない。少なくとも、これまで総裁選の中でこの二つの問題について方向性を明確に語ったという事実を知らない。

 ③と④については、もともと自民党の「遺産」であるから、元首相の安倍氏が政権を握ったからと言って有効な回答が見出せるとはとても思えないのである。特に④については、安倍氏の「師匠」である小泉純一郎元首相の置き土産である。


 「退陣」をきれいごとで語るな


 しかし、安倍氏が率いる自民党そのものが「新生自民党」であるなら話は別だ。果たしてそうなのか。ニュースで報じられているように、党員を含めた投票では石破茂元政調会長が地方票の過半数を押さえた。議員票を加えた票数では、全体の4割だった。国会議員票だけの決戦投票で安倍氏が逆転した。3位以下の票は安倍氏に54、石破氏に55票が回り、ほぼ拮抗していた。つまり、第1回投票での議員票の差がそのまま勝敗を分けた。

 1978年の総裁選で現職総理だった福田赳夫は大平正芳幹事長に予備選で大敗し、本選出馬を断念した。福田自ら「予備選で負けたものは本選を辞退すべし」と言ってしまったことで自縄自縛となった。福田がもともと、自らの言葉に縛られる、という性癖があったことは事実であり、政権密約説や角栄秘書軍団の活動ぶりなどいろいろあるがそれは置いておくとして、党員票で過半数を取ればそれで決するという英断はなかったのだろうか。谷垣下ろしでは長老の影がちらつき、決選投票では派閥の力学が働く。これはかつての自民党と同じではないか。「派閥」などというのは中選挙区のもとでは準政党の役割を担ってきた。その弊害を取り除くため、選挙制度を変えたはずだ。これがいまだに機能しているのはなぜか。

 安倍氏は総裁に選出された際の演説で「首相辞任の責任を胸に刻み」としていたが、これは日本語の用法として違う。正しくは「突然の首相辞任によって責任を放棄したことを胸に刻み」であろう。「責任を胸に刻み」といえば「あのときの責任を果たさなければ」とのニュアンスで聞こえる。こうした言葉の使い方は犯罪的でさえある。そのうえで、安倍氏の「辞め方」に触れなければならない。安倍氏は退陣直前に参院選で惨敗し、ねじれ国会を生じさせた。引責辞任を求める声が党内外から挙がったが、無視し続けた。秋の臨時国会で所信表明演説をした2日後、辞任を表明した。

 安倍氏はいま辞任を病気のせいにしているが、この退陣経過を見ると、政治家の出処進退の問題であろうと思う。退陣するなら所信表明演説はすべきではなかった。肝心な部分を抜きにして、かつての退陣を「きれいごと」で語るのは疑問だ。

 しかし、原発と沖縄について民意がまったく反映されていないのは民主党も同じである。では、国民にどのような選択肢があるのだろう。そこで「維新の会」に注目が集まるが、このグループも早晩メッキがはげるにちがいない。では、どうすればいいか。


 政治の土台を変えるしかない


 日本はかつて、中選挙区制の弊害―派閥政治、金権政治、政権交代のない政治―を打破するため、小選挙区を選択した。この制度は、基本的に2大政党制を生みだす制度である。しかし、現実はそうなっていない。比例代表並立制を加えたためである。その理由は、公明党など小政党の理解を得るためだ。さらに言えば、小選挙区は、地元に強い候補より政策に明るい候補を出す、というのが基本であるはずだ。しかし、現状はそうなってはいない。相変わらずのどぶ板選挙が幅を利かせている。ひどい事例になると、議席を得るために政党を鞍替えするというのもいる。小選挙区制度の理念が不徹底なため、中選挙区制の残滓が政治をゆがめている。

 ここでの選択肢は二つある。小選挙区の理念を徹底させるか、別の選挙制度―中選挙区制への回帰か比例代表への移行―を考えるか。

 政治そのものの土台を変えないことには、国民はあまりにも不幸である。


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