都市と歴史を見る「異邦人」の視線~濫読日記 [濫読日記]
都市と歴史を見る「異邦人」の視線~濫読日記 |
「屋根裏プラハ」(田中長徳著)
「屋根裏プラハ」は新潮社刊。定価2000円(税別)。初版第1刷は2012年1月30日。著者の田中長徳は1947年東京生まれ。写真家。69年、大学在学中に個展開催。73~80年、ウイーン在住。89年からプラハにアトリエを構える。著書に「晴れたらライカ、雨ならデジカメ」(岩波書店)など。 |
事情があって職を失った友人が初冬1か月間のプラハ滞在を敢行したことがあり、送ってきた絵葉書に「哀しいほどに美しい街」と書いていた。もちろん自身の身に降りかかった運命への思い入れが重なってのことだろうが、プラハはたしかにそんなイメージを醸し出す街である。一時期、モーツアルトの「プラハ」(交響曲38番)をよく聴いていた。曲想は格別プラハの情景を念頭においたものではなく、ただプラハで初演されたためそうした別名が付いたらしいが、モーツアルトにしては整然とした構成に、まだ見ぬプラハの街のイメージは容易に重なった。
「屋根裏プラハ」という一風変わったタイトルの裏にあるものは、読んでみれば分かってくる。先にあげた絵葉書の友人は、どんなに思い入れがあろうとも視線は「旅行者」のそれである。それに対して著者の田中長徳はすでに20年以上、東京とプラハを往復する。住居は襤褸アパートの最上階、屋根裏部屋であった(今は違うだろうが)。
――屋根裏部屋がボヘミアンの象徴なら、舞台はパリよりもボヘミアのど真ん中、プラハこそふさわしい。
こうして、チョートクは住民としてでも観光客としてでもなく、プラハの街を見る。1989年のビロード革命の変遷を見、1991年のソ連8月クーデタの発生を聞く。社会主義体制の崩壊が始まり、冷戦が終わり、それにつれてチョートクの旅も変わる。
――国境を越えることは、ひとつの国の辺境からもうひとつの国の辺境へとひとまたぎすることにほかならない。このリアリティ、世界位相の激変が実にドラマなのである。このような、もうひとつの国へのわくわくする列車の旅はすでに永遠に失われてしまった。(略)同一の経済圏になってしまったから、何の面白さもない。自分はかつての「もうひとつの国」に時代を記憶する「土地の古老」であることを誇りにするものである。
長い引用になってしまったのは、最後のフレーズに著者の位置が表されていると思ったからである。世界に二つの体制があったころの時代的風景に彩られた「プラハ」の街が、筆者の筆によって書きとめられていく。しかし、プラハは社会主義体制に封じ込められたという側面だけではなく、それ以前に神聖ローマ帝国の首都でもあった。ここでは、宗教に彩られた街の姿が現れる。
――(写真家の取材として)教会を様式でしか見ていない。だからその魅力が未だに分からない。教会は我々「異教徒」には信仰と懺悔と恐れと希望の対象ではないからだ。(略)われら「異教徒」は有難いカテドラルの中で途方に暮れてしまうのである。
教会は様式として理解され、地上を超絶した存在としては理解されない。ボルシェビキの時代にカテドラルは資材置き場となり公衆トイレになった。しかし、それは彼らが神を認めるからこその否定である。極東の「呪術信仰の末裔」は、ここでも「自分の立ち位置が不明」な異邦人として立ちすくんでいる。もともとはカメラマンである筆者の、街と歴史に対する「視線」が気になる一冊である。余談だが、表紙のなにやら味わい深いモノクロ写真のいわれは、読んでいるうちに分かってくる。
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