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藪中公電報道で報じられなかったもの [社会時評]

藪中公電報道で報じられなかったもの


 いささか旧聞に属するが、9月27日付朝刊各紙(一部は28日付)は、ウィキリークスが公開した米外交公電のニュースを掲載した。報じられた公電は2009年9月3日付東京発で「SECRET」に指定されていた。ウィキリークスがリリースしたのは8月30日付で、この日付が正しいとすれば、各紙は1カ月近く公開文書の存在を知らなかった(もしくは知っていて放置した)ことになるが、それを今、取り上げるつもりはない。公電は、ルース駐日米大使と藪中外務事務次官(当時)の会談内容を伝えていた。大きく分けて三つのイシューがあり、一つは対北朝鮮問題、もう一つは国際的な子供誘拐に関するハーグ条約加入問題だったが、注目されたのは三つ目のオバマ米大統領広島訪問に関する藪中次官のコメントだった。大統領訪問に関して米側が感触を確かめたところ、次官は「時期尚早」と答えたという。

 各紙とも、ここに飛びついた。ニュースの中心に据えたほか、被爆者の声をサイド仕立てにして社会面や地方版に載せた。「被爆者ら失望や憤り」「気持ち、踏みにじった」などの見出しが付いた。朝日新聞は「なぜ原爆と向き合わぬ」と社説で取り上げた。各紙で濃淡はあるが、基本的なトーンは「オバマ大統領は広島に来たがっているかもしれないのに、日本政府がそれを止めるなんてとんでもない。被爆者の気持ちが分かっていない」である。そのうえで、米国の大統領が広島を訪れたら、被爆の実相を知るに違いない。そうすれば、核兵器をなくそうと考えるに違いない。そうすれば、核兵器廃絶へ一歩前進する―。各紙とも、お定まりのように関連記事はこの2本だけだった。だが、ちょっと待てよ、と思う。

 米国の大統領が広島を訪問すれば、核兵器廃絶の道は本当に開けるのか。藪中外務次官はなぜ「時期尚早」と言ったのか。その背景は何か。外務次官といえば一応、国際情勢分析のプロである。被爆者の気持ちは気持ちとしても、その間に何かありはしないか。それを知りたいのだが、伝える記事はなかった。被爆者の反応に「たら」や「れば」を積み重ね、核兵器廃絶の可能性に強引に結びつけた報道だった、と思える。

 このニュースには、重要なキーワードがあった。「(藪中次官はルース大使に対して)大統領による謝罪のための広島訪問には否定的な見解を表明」(9月27日付中国)にある「謝罪」という言葉である。実はこの「謝罪のための訪問に否定的な見解」という表現、分かったようで分からない。朝日はここを「謝罪する見込みがない」と訳していたが、原文に当たってみても意味不明の感がある(ちなみに原文はObama visiting Hiroshima to apologize for the atomic bombing during World War II is a "non-starter." )。

 日米の客観的な情勢に鑑みて米大統領がいま「謝罪」を口にすべきでない、との意味なのか、米大統領は謝罪しないだろうと日本政府は見ている、という意味なのか。だが今は、この部分はひとまず置くとして、先に進む。問題の所在を分かりやすくするため、一つの想定をしてみたい。広島を訪れた米国の大統領が、原爆投下に関して謝罪の言葉を発しなかったとしたら…。


 昨年の「8・6」にはルース駐日米大使が広島の平和祈念式に参列した。しかし「謝罪」はもちろん、コメントも一切なく献花さえしなかった。これは何を意味するか。いま手元にデータはないが(従って記憶に基づいて書いているが)、数年前に日経新聞に掲載された米国の世論調査結果で(確かギャラップ社だった)原爆投下を「正当だった」とする答えが5割を超えていた。記事では原爆投下直後の調査結果も載せていたが、それによると「正当」と答えた比率は7割を超していた。60年以上もたち、さすがに減ったといっても、原爆正当化論はいまだ米国世論の大勢なのである。そうしたことがルース大使にあのような行動をとらせたと推測される。

 いま米大統領が広島を「謝罪抜きで」訪れても、大使と同じ行動をとる可能性は高い。そうだとすれば、ヒロシマは受け入れるのだろうか。それは結果的に何を意味するのだろうか。いまだに原爆正当化論に立つ米国をヒロシマが容認したと、国際社会に公言することになり、同時に「核の傘」にある日本の防衛体制の容認につながりはしないか。

 外務省の言う「時期尚早論」と被爆者の「怒り」の間には大きなギャップと闇がある。そこを直視せず、仮定を積み重ねて「大統領が広島を訪問すれば核兵器廃絶の道が開ける」というのは、ヒロシマの希望や願望とは逆の結果を生むような気がしてならない。

 1953年にアイゼンハワー米大統領が国連演説で「原子力の平和利用」を強調し、55年には米下院で「広島に原発を」という緊急提案がなされた。実現はしなかったが、日本の核アレルギーをなくすには広島に原発をつくり、安全性を証明するのが一番だ、というのが、込められた狙いである。これと同じ文脈で「核抑止力堅持のため、米大統領を広島へ」という動きにもなりかねないのだ。政治的に見れば謝罪なき米大統領訪問の受け入れはヒロシマにとって危険性をはらんでおり、両刃の剣であろう。

 


 この話は、もう一つ触れておかなければならないことがある。ウィキリークスの公電公開に関しての、松井一実・広島市長の発言である。それは10月6日、定例会見でなされた。そのうちの「謝罪」に関する要旨は以下のとおりである。

 

 私は謝罪という言葉には、(広島)市としてはこだわらなくていいと思いますね。

 被爆の実相に触れていただいて、広島の思いを共有していただくと。本当に核廃絶に向けての行動をお願いしたい。その共有していろいろな対応をしていただきたいという時に、過去についての一定のけじめをつけなければできないじゃないかという意見があることも重々承知した上ですけれど、それについては、多分そういう要求をすれば、その為政者はやはり自国の国民の中から選挙で選ばれたりしますから、国民の中のいろいろな意見との対立とか等々大変なこともあるような気もしなくもありません。

 

 「謝罪」は単なる「過去のけじめ」なのだろうか。「原爆投下」は「人類の犯罪」であり許すべからざることだからこそ、ヒロシマは核兵器廃絶を訴え続けたのではなかったか。米ソの核兵器開発競争が冷戦の幕開けを告げ、「核権力」を競い合った時代に「絶対的な人道主義」を唱えたからこそ、ヒロシマの存在理由があったのではないか。パワーポリティックスに市民主義的人道主義で立ち向かい、ようやくそれが潘基文(パン・ギムン)国連事務総長とルース大使の祈念式参列に結びついた。その原点を捨て去ってはいけない。さらにいえば、なぜ被爆者が米国の統治事情まで慮る必要があるのか。あくまでも原爆投下の責任を問い、謝罪を求めることの重さは忘れてはならないと思うのだ(市民主義的人道主義の重要性は、今日の原発をめぐる論争の中で見直されている)。

 残念ながら、松井市長発言は全国紙で小さく報じられただけだった。地元紙に至っては記事の末尾にひと段落だけ付け足しのように書いただけだった。このことも含めて、藪中公電に関するメディアの報道のありかたは、ヒロシマの原点を忘れさっているとしか思えない。


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