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「がんばれニッポン」ではない方へ~濫読日記 [濫読日記]

「がんばれニッポン」ではない方へ~濫読日記

「現代思想」5月号「特集 東日本大震災 危機を生きる思想」

 

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 ひところに比べ減ってはきたが東日本大震災の直後「がんばれニッポン」のコマーシャルがテレビで流され続けた。何とも言えぬ違和感を覚えたものだった。ニッポン丸に同乗していたら、これがなんとも泥船であり、そのうえ放射線まで出すというしろものだったのだ。その沈没しかけた船をこれからもみんなでこいでいこうよ、という響きがあるのだ。

 こんなことを感じるのは自分だけか、と孤独をかみしめていたところ、そうでもないことが分かった。「現代思想」には、あちこちでこうした「違和感」がつづられている。

 「『無責任の体系』三たび」(酒井直樹)は、まさにこのことに深く言及している。酒井は3月21日付読売に掲載された玄田有史の論考を取り上げる。生き残った者の死者への責務の感情を枠組みとして「小異を捨てて団結」し、政治の大連立を打ち立て消費税アップを訴えているという。

 ここで酒井は硫黄島のある慰霊碑のことを取り上げる。岸信介が書いた「戦没者顕彰碑」である。これに「嘔吐感に近いなにか」を感じる。考えてみれば岸は戦時中、兵士たちに戦場に行くことを命じた側の人間である。兵士からすれば、岸たちの失政の結果、捨て石として死んでいったのである。このことを酒井は「彼らの遺志を継ぐ者の位置を盗みとっている」と感じている。

 こうした「死者の名前の横領」を許さないためにはどうすればいいか。挙国一致内閣の協賛や団結奨励のための死者の慰霊ではなく、このような惨事を生み出した制度的な条件の洗い出しではないか、というのである。つまり「無責任の体系」の解析である。そのためには酒井は「無節操な団結」より「必要なら日本人を割る」覚悟が求められているという。

 たしかに、巨大な災厄は等しく多くの人たちを襲うが結果は平等ではない。ごく瑣末な違いで助かる人とそうでない人とを残酷に分けてしまう。そのことが生存者の罪責感を生み、それが新たな共同体を生む力になる。しかしそれは、これまでの共同体の再構築ではなく、無責任の体系を検証したうえでの新しい共同体の模索でなければならない、という酒井の論は極めて的を射ている。

 震災地でカメラを回していたという森達也もまた、同じことを感じている。「負けるなとかがんばれニッポンとか、耳にするたびに違和感がある」という森は、酒井よりももっと被災者の心情に寄り添ったところで「微妙だけど決定的な違和感」を覚える。例えば、家や財産を失った人に「がんばれ」とは言えるが、愛する家族のほとんどを失った人に「がんばれ」とか「負けるな」は「あまりに冷酷で無慈悲」というのである。

 では、私たちはどのような視点で、この惨事を生み出した社会的メカニズムを批判的に分析していけばいいか。この点では「福島原発震災の政策的意味」(吉岡斉)が極めて参考になる。吉岡は幅広い論考を展開したうえで、「原子力政策転換の方向性」として以下の4点を挙げている。一つは原子力安全・保安院の解体と、独立性の高い規制委員会の創設。次に原子炉の新増設の禁止と既設炉の安全性の総点検。そして、これがもっとも重いと思われるが、政府計画からの原発拡大方針の削除と、「保護と忠誠」原理に基づく「国策民営」体制の解体である。そのうえで、4番目として東電の資産売却、解散を挙げている。

 「原発は安い」と言われてきた。しかしそのコスト計算式には数々の疑問があるとの声が高まっている。仮に今回の事故による経済損失を50兆円とした場合、キロワットアワーあたりのコストは6.7円上がると吉岡は試算する。公表されていたコストは一気に倍以上にはね上がる。

 「ゲンパツを可能にし、不能にしたもの」(飯田哲也)も「国策」がもたらしたものを批判する。「日本の知識人総体に中心にぽっかりと空いている『知の空洞』が問題の本質」とし、北欧やドイツが197080年代に乗り越えてきた原子力論争を「日本は『国策』の名の下に避けて通り、未だに消化していない」と厳しく断罪している。

 まさしく今問われているのは「情報被曝」(東琢磨)からの脱出であろう。そして、どう考えてもゲンパツ依存症はなくさなければならない。

(「現代思想」は青土社刊、1300円)


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