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「待つ」人たちの群像~濫読日記 [濫読日記]


 「待つ」人たちの群像~濫読日記

「海炭市叙景」(佐藤泰志著)

 海炭市叙景_001.JPG「海炭市叙景」は小学館文庫。619円(税別)。初版第1刷は20101011日。佐藤泰志は1949年、函館市生まれ。国学院大哲学科卒。1981年「きみの鳥はうたえる」を含め芥川賞候補5回。901010日に41歳で自殺。 











 いま、地方都市には奇妙な喪失感がある。歴史がどこかで断絶しているようで、かといって新しい町が私たちの肉体にしっくりと向き合っているかと言えばそうでもない。何かが足りない気がする。地方都市に漂う疲弊感と絶望、といってしまえば間違いではないが、そうだとうなずくこともできない何かがある。

 「海炭市叙景」という短編連作集を知ったのは「言葉のなかに風景が立ち上がる」(川本三郎著)によってであった。現代文学を風景論の側から読み解いた著作で、「海炭市叙景」は「古い町はさびれ、新しい町はまだ育っていない」というタイトルで10㌻にわたり、書かれている。10㌻という分量は、他の作品と比べて平均的なボリュームであった。

 タイトルから分かる通り、川本はこの作品を、町の断層を描いたものとして見ている。風景論から照射すれば指摘はそのとおりなのだが、なお言い残されたことがあるような気もする。18の短編に出てくる人物の彫りの深さ、とでもいうべきものへの言及である。

 「海炭市」という地方都市はもちろん実在しない。著者佐藤の故郷である函館がもともとのモデルであることはすぐ分かるが、かといって「海炭市」は函館のことだ、と言ってみても何の意味もない。それは全国、金太郎あめのようになってしまった(もちろん、このことに問題があるのだが)地方都市のことであろう。そこでは、普通の人たちがごく普通に仕事を持ち、あるいは仕事を持つことができず、そのことで社会とかかわり、あるいはかかわろうとしている。このことを書きこんだ、ある印象的な描写を紹介しよう。

――海岸通りの小砂丘も、五年も前に市の土木課の連中がコンクリートで固めてしまった。(略)バラックを次々あっけなくぶち壊し、跡形もなく公園にしてしまった(略)それでいいのだ。新しい時代のためだ。

 その直後、プロパンガスの配送をしている晴夫はガスボンベを握る手を滑らせ、「長靴とその中の親指を潰す鈍い音」を聞く。実在感のない風景の中で、晴夫の「鈍い痛み」だけが自らの存在を証明し続ける。

 「仕事」と「風景」と、心か肉体のどこかにある「痛み」。これがこの連作の軸を形作っている。炭鉱を解雇された兄と、その妹。パチンコ屋で働く男には前科がある。妻子を連れて東京から舞い戻ってきた男。妻の不貞を知った、プラネタリウムで働く市の職員―。職業も境遇も違う人々が持つ共通の心象風景は「待つ」ことである。冒頭の「まだ若い廃墟」からして「待った。ただひたすら兄の下山を待った」というフレーズで始まる。首都から舞い戻った男は家財道具を積み込んだコンテナを待っている。競馬で身を持ち崩していく男は、当たり馬券を待っている。明らかに著者は、「待つ」ことを表象的に作品の中で使っている。「待つ」ことは現実への絶望である代わりに、希望のかけらを託した行為でもある。このことが作品にわずかだが、人間のぬくもりを通わせているように思われる。

 むき出しのコンクリートのようにざらりとした地方都市の風景で、ひっそりとともる人々の暮らしの灯。この作品はそんな雰囲気を漂わせている。1991年に単行本として出され、絶版となったが2010年秋に文庫本として復活した。私と同じ年齢である著者は20年前に自死した。しかし、その内容が全く古びていないことにあらためて驚かされる。

 映画化され、キネマ旬報のベストテン9位。広島では2月12日からタカノ橋シネマサロンで上映の予定という。

海炭市叙景 (小学館文庫)

海炭市叙景 (小学館文庫)

  • 作者: 佐藤 泰志
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2010/10/06
  • メディア: 文庫



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